うんうん

 そういえばこの前三一歳になった。

 三十歳の間はあまり書かなかったような気がする。英語フランス語の情報収集能力を上げたくてそっちに時間使ってるけど、この選択が正しいのかまずいのかよくわからない。


 書いていく中でインプットが足りないとはよく思うし、インプットをする中で日本語で読んでるだけでいいのかってよく思うから今に至ってるのだけれど。でもそもそも日本語でのインプットだって足りてはいない。別に英語やフランス語なんて無視して、ひたすら日本語で読めるものを読み続けていったっていいのではとも思う。でもそれはぼくがやらなくてもたくさんの人がやっているのではとも思う。どうせなら人の少ないところに行って珍しい景色を見たい。


  でも何か間違ってる気はする。こういう場合、確かに何かが間違ってることが多いのでそこは是正していきたい。





  ポールオースターの鍵のかかった部屋を読んでいて、この小説はなんなんだろうなと考えている。ネットでちょっと調べた限りオースターは自分の来歴をネタとして利用しているらしい。でも別にこの小説はオースターの自分祭りではない。


 たぶん何かあったのだ。でもその何かを言い表すのが尋常ではなくて、あえて自分を他人にして、その自分を外から見つめる主人公を設置して、そいつの口から自分について何かしらを語らせた。でもあるいは主人公もオースターなのでは? という感じがする。自分こそが本当は他人であって、それを外から見ている主人公こそがオースターなのでは? っていう。


 だからなんなんだ? と言われるととても辛い。この種の問題はとてもそうだ。

 でもたぶんオースターはその解決策としてこの小説をミステリー仕立てにしたのだろう。テーマの意味を問わなくて済むように読んでておもしろいエンタメの構成をとった。でも最後まで読めば誰でもわかるけどこれは本当の意味ではミステリーじゃない。どちらかといえばポエムだ。いい意味で。この読後感はディックの小説のラストのワケワカラン感に少しだけ似ている。


 まとまらない。

 そう、結局だからなんなんだってなる。ぼくはそう思わないが他人はこの種の問題に、だからなんなんだ? って言い出すのをよく承知しているからそう思う。


 なんでもねぇよ。

 って言いたくなる。でもオースターはそう言わずに何か書いたし菅原孝標の女も書いたしモンテーニュも書いたわけ。みんなすごいよねって思う。

パンとぼく

 今日は現実逃避に手相占いに行ってきた。

 

 マスカケ線があるそうだ。天下をとれるよ、と言われた。あと完全な金環線が両手にあるそうだ。芸術的センスが高いよ、と言われた。それでいてなんか生命線と他の線が離れていることから、あなたは自由で大胆だよ、と言われた。作家志望としてこれ以上の手相はないよ。なんで成功してないの? がんばりなさい。そうすりゃすぐよ。

 

 ここまで聞いてぼくは思ったものだ。

 いやほんと占い師ってすげーサービス業なんだな。ここまで持ち上げられたら流石に悪い気はしないぜ。うへへ。しかし次の瞬間ぼくは真顔になった。

 

「あ、でも貴方には一番大切なものが抜けてるね。『自分』がないのよ。軸がないともいえるわね。掌をまっすぐに中指へ貫いていく線がないの。あー、いや、……あるわね。でも……すっごい薄い! えwwwwww うっすwwwwwww なにこれwwwwwwww 台無しwwwwwwwww あなたwwwwwww うっすwwwwwwww」

 

 ぼくは真顔になった。

 で、そのあとおばさんにめっちゃ手をもみしだかれながら説教された。とにかく覚悟を持ってがんばりなさい。あなたにたりないことは腹をくくることなの。とにかく頑張りなさい。あぁはいはい。はーい。わかりまーしたー! ちっ、うっせーなー! これじゃちっとも現実逃避にならねーじゃねーか!!!

 

 はい。

 

 

 

 

 

 というわけで、ロベルトボラーニョの『ムッシュー・パン』を読んだ。

 いつものやつだった。ボラーニョがかつて見聞きしたことの中で、どうしても彼が忘れたくなかった人を忘却の淵からすくいとったよ系のお話だった。とあるしょうもないオカルト屋のクソみたいな脇役っぷりを十全に描き切った中編だった。彼はどんな物語の主人公にもなれないまま終わる。さようならパン。

 

 そしてこの本を読んでぼくが思ったのはボラーニョとぼくの違いだった。何の因果かぼくはこのチリ出身のスペイン語作家を愛しているため、夜な夜な彼について思いを巡らせていて、彼とぼくのどうしようもないほどの違いについてよく悩むのだけれど、今日は特に考えてしまった。

 バックボーンが違う。これはいつかの日記(もう消したけど)にも書いたけど、彼はつねに自分の来歴から逃れることができない。クソみたいな南米のどうしようもないほどのクソさとか、ヨーロッパに渡った彼の同胞のどうしようもないクソさとか、そこらへんで起きた戦争のクソさから彼は逃れられない。そういったクソさがいつも彼のテーマになっている。

 しかし同時に彼はとてもブッキッシュな人間だ。19世紀フランスの象徴詩人たちなんて当然のように読んでいるし、ぼくのようなにわか野郎が泡を吹くくらい細かいヨーロッパ文学の知識をたまに垣間見せる。恐るべきはそういった手管が全く衒学的ではなく、むしろムッシューパンのようなクソ野郎と同じ調子で出てくるところだ。彼はムッシューパンもボードレールも同じように愛している。なんてしなやかで強靭な愛だろうか。

 彼は死ぬほど本を読んだけれど、しかしそれでやったことは文学の道に連なることではなかった。いや、連なっている。しかし文学の道に連なるために書いたわけではなかった。いや連なるためには書いている。でも彼は第三帝国というクソみたいなボードゲームやメスメリスムとかいうクソみたいなオカルトや、クソみたいな下水管の中を這いずりまわってクソみたいな同胞殺しを止めようと奮闘する気高い鼠や、火吹き男や娼婦や刑事や詩人たちのお話を書く。

 簡単に構造化すると、ぼくの目にボラーニョは、「クソだけど愛すべき俺の世界」というテーマを、「あまねくすべての(ヨーロッパ)文学」という言葉で歌っているように見える。

 こうしたときにぼくは気がつく。ぼくにはテーマがないと。少なくともボラーニョのように明示的に、小説の中ににじみ出てきてしまう「何か」はない。いや、ある。ないなんてことはない。でもそれが何なのかがわからない。日頃磨いているのは言葉の方だ。ボラーニョほどではなくても、自分で自分の歌を歌うための言葉ならもてる。そう思う。でもテーマが分からない。いや、じゃあ小説書かなくていいじゃんって話なんだけどさ。でもそんな話じゃないんだよ。そんな話じゃないんだ。ぼくはこんなふうに自分の意見を、自分のテーマを、なかったことにする癖があるっていう話だ。

 

 

 

 

 最近図書館で棚を眺めていると、それぞれの本が紙の束というより、それぞれの作家のテーマと言葉の塊のように見えてくる。いや前からそうなんだけどさ。ボラーニョに限らず海外作家を本をめくったとき、ぼくとそいつはどうしようもなく違う世界に生きていて、違う何かのために書いているのだということが嫌になるほど伝わってくる。小説は既存の要素の組み合わせパズルかもしれないが言うほど既存の要素の組み合わせパズルではない。ぼくは結局ぼくから逃れられない。手持ちのピースは決まっている。たくさんのものを見聞きして経験値を増やせば手札が増えるというわけでもない。どうしたってぼくはボラーニョにはなれない。村上春樹にもなれないし東野圭吾にもなれない。当たり前だけど。経験で増えるのは表面の意匠の取り繕い方だ。


 マスカケ線と金環線よ、ぼくを助けてくれ。

好きなことって何よ

 最大公約数としての小説を突き詰めようとするのほんと無意味だと思う。なぜかそうしちゃう。どんどんつまんなくなる。やめたい。


 格ゲーやってるときはある技を中心に据えたスタイルにこだわっていて、それでどこまでいけるか、それでどうやって相手を殺すかだけを考えてた。なんでその技使うの? あたまおかしいの? 理にかなってないでしょ? って言われてもそれ使い続けててほんと楽しかった。伸び悩みはしたけど最後までそのスタイル貫けたのはほんとよかった。

 趣味でやってる歌も声音にこだわってる。数年間ほとんど毎日練習してその声音を作ってきた感ある。部屋に自作の防音室(欠陥品)作った。楽しい。



 だから小説でも「小説」なんか無視して好きなことやりたい。なのに「小説」とは何かみたいなことばっかり突き詰めてる。視界が広すぎる。広すぎて結局何にも焦点が合わない。もっと狭い視野でいい。それだけを見ていたくなるくらいの何かがあったはずなんだ。じゃなきゃ小説なんて書いてない。なんだっけ。なんでぼくはそれから目をそらしてこんなどうでもいい広いだけの世界に目を向けたのかね。文学とか歴史とか人文社会とか本質的にはどうでもいいんだよ。低脳かよ。優等生になることを意識して大切なことから目を逸らすとかクッソ愚か者の所業じゃん。頭わいてんよ。




 ってぐちぐち考えてる感じの日々。まぁ通常営業。

お話の類型

 お話の類型について。

 

 

 ①事柄

 お話には一つの軸となる事柄がある。最初に何かがはじまり→最後にそれが終わる、という軸。だから最初に殺人事件があったのならば最後までそれに関することでなければならない。事件の解決自体が軸にはならないとしても、同じ犯人との対決とか、その事件で受けた衝撃からの回復とか、何かしらの軸は一貫しているべきだ。でなければその話は破綻している。

 

 ②人間関係

 お話には一つの軸となる人間関係がある。AさんとBさんの話としてスタートしたのなら、それは最後までAさんとBさんの話であるべきだ。AさんとBさんの関係についてスタートしたのにAさんとCさんがハッピーエンドを迎えてBさんがフェードアウトしているのならそのお話は破綻している。

最近あつくなってきた。いやだ。一生冬がいい。

 ぼくは才能がない。

 いやそんなことはどうでもいい。

 隙あらば自分語りをはじめる人格をぶっ殺せ。

 

 

 

 ブルージャイアントの最新刊を読んだ。

 そしてつくづくこの漫画はすげぇと思った。

 端的に言えば、ジャズ馬鹿が群れて楽器を奏でて、それを聞いたやつが「こいつらやべぇ」と思いながらブルリと震える。ただそれを繰り返すだけの漫画だ。でもそれを突き詰めている。何しろ読んでいるこちらまでブルリと震えるのだから。しかも音が聞こえてくる。冗談じゃなくマジでな。

 

 去年、三次で落ちてもらった選評で「もっと尖らせろやお前の小説、外連味なさすぎて草も生えない(意訳)」っていうコメントがあったのだけれど、あーなるほどねーって今更思った(隙あらば自分語り)。

 

 

 

 あとなんかボーイズラブ読んでても思う。

 自分がよく読む漫画、ボーイズラブなんでその話題出しちゃうの申し訳ないんですけど、他の凡百のものなんて読んでも大して記憶にも残らないのに、緒川千世とかはらだの漫画はどうしたって印象に残る。

 この違いってなんなんだろうね。

 最近の他のならギブンとかさ。そういえばあれも音楽系の漫画で、バンドものなんだけど、歌ってるシーンは声が聞こえて震えたね。鳥肌が立ったよ。

 どうしてああいうお話が作れるんだろうね。

 才能?

 

 

 尖らせるってなんだ?

 どうしてぼくには作れない?

 もーほんと嫉妬で黒焦げになるんご。

 

 少なくとも一人は「読んでる間、登場人物全員が狂ってる感じがして異様でした」って感想を抱いてくれた。あとはそれをできるだけ多くの人に感じてもらうことなんだけど。そのためにどうしたらいいのかがいまいちよくわからない。

 

 まぁ書くしかないのだけれど。

 

 つーかふと思ったんだけどぼくは何をモチベに小説を書いてるんだろうね。純文に送ったりラノベに送ったり一般に送ったりしてるけど。何をどうしたいんだろうね。「書きたいことがないかのように思えます」って言われたこともあるんだ。でもそんなことはないんだ。だって書きたいことがないんだったら書くわけねーんだからw

 でも書きたいことを書いてない可能性はある。たまに自分が、書きたいことじゃなくて、「いい小説」っぽい最大公約数的なサムシングを必死に割り出そうとしているかのように感じるときがある。そしてしらける。そんなものが無意味なのは知っている。そんなのはどうでもいいんだ。

引っかかり

 たまに思い出すことでずっと引っかかってることがある。


 大学のとき作家を目指してる友人(少なくともそれを平然と公言していた友人)は一人しかいなかった。世の中には作家志望だと公言する他人を胡散臭いやつだと訝しむ奇妙な人々がいる。まぁその見方の是非はどうでもいい。何が言いたいのかというと、ぼく以上に彼の評判は悪かったということ。自己中心的で他人を馬鹿にしていて人の心がわからないと言われていた。実際、廊下をだらだら歩いて邪魔になっている女子に「どけ」と暴言を吐き、文学部なのに読書をしていない同級生に面と向かって軽蔑の言葉を吐いていた。愉快なやつだった。しかし同輩の誰よりも本を読み文学に対して真面目だったこともまた、誰の目にも明らかな事実だった。彼との話はいつもそれなりに興味深かった。

 そんな彼とある日、書こうとしている小説について話をしていたとき、ぼくは「実は書きたいものがある」と言った。すると彼はいつもの軽蔑したようなため息をつき、「書きたい? 何言ってるんだ。文学っていうのはそういうことじゃないだろ」と言った。

 このことがずっと引っかかっている。頭にきたという意味ではない。ただ引っかかっているのだ。考えてみればもう八年も前のことなのだけれど。


 ちなみに彼の意図がわからないわけじゃない。たぶん彼にとって文学とは一種の学術研究のようなものであり、時空を越えて数百年と続く営みの結果として要請されるものなのであり、そこに個人が自らの気分において「書きたい」と思ったことなど存在する余地がない。だからもし「書きたい」などという動機から筆をとるのならそれはちゃんちゃらおかしなことだと思っていたのだろう。

 八年前のぼくは彼のそうした考えに対して何か言うことを持ち合わせていなかった。


 しかし今は尋ねてみたいことがある。

 ぼくらは例外なく時代の奴隷だ。その想像力はどうしたって今ここから逃れることなどできない。だからぼくの個人的な「書きたい」という気分など、どうあがこうとも時代の中に収まるものであって、逆に言えば、連綿と続く文学の地続きの道の中に収まってしまうのではないかと思える。文学の歴史という巨人の肩に立って見る景色も、ぼくが気まぐれで目指した景色もともに、この時代の中のどこかにある一風景に過ぎない。

 勘違いしてほしくないのだが、「ぼくは正当な文学をやっている」と自己正当化しているわけではない。何をやっても逃れられないくらい文学は大きく豊かなのではないかと言いたいだけだ。


 別の言い方をすれば、友人とぼくとの違いは今ここで右に行くか左に行くか程度の違いしかないのではと思える。「正しい文学」を吸収し続けてその道の先に行こうとすることと、「書きたい」と思ったことを書くことがそれほど大きな差を生むとは思えない。一見別々の道であってもどうせ二人ともこの時代の外に出ることはあたわないのだから。


 というような話を友人にして意見を聞きたいが、残念ながらその友人もとっくに筆を折り、今は仕事と家族のために生きている。たまに本は読んでいるようだが、ものを書いているという話は聞こえてこない。

 

はぁ

 記事消した。結構前に。なんかむしゃくしゃして消したんだけど、消したのがだいぶ前だからなんで消したのかはよく覚えていない。まぁどうでもいい。

 

 

 いろいろ考えて結局書きたいこと書けばいいやんってなった。

 小難しく考えすぎやねん。ほんと自分クソだなって思う。別に「最高にいい感じの書き方」なんてわかんなくてもいいし、高い技術を得る必要もない。っていうかそんなのほしかったことはない。そうじゃないってわかってるつもりだった。でも気づいたらずっと「どのように書くか」ばっかり考えていてほんと自分クソだなって思う。

 ストーリーの軸は関係性だ、とか、最初から最後まで何らかの関係性が一つの軸として機能していて、その軸をどうやって起伏あるように描くか、だとか、起承転結が、とか、問題提起とその解決が、とか、ターゲットとなる読者が浸っている背景(流行ってるゲームとかとかとか)を踏まえて設定を考えてみよう、とか、ほんとクソどうでもいいことばかり考えてて草が生えますよ。

 ちなみにそうやってグダグダ考えているうちに去年撃った弾は全て逸れたことがわかった。まぁそれはいいんだ。今んとこ自分はウンコ量産機でしかないので。つーかそれにしたって不思議なんだけど去年の後半は三つか四つくらい書き上げたのに今年はまだ一つも書ききってねーの。まぁ転職とかいろいろあったけどさー。マジでねーよ。

 

 

 

 大切なのは技術より情熱なんだ。

 他人が見て感動するのは情熱なんだ。

 ぼく昔、ネット上のイラストレイタ―見てて人生捻じ曲げられたもん。同い年なんだけどイラストに人生全振りしててかっこよかったんすわ。今思えばその人別にそれほどうまくなかったし、どうやら美大いったけど今は絵で食えなくてOLになってて、趣味で描いてるみたいなんだけど、でも当時、ぼくその人のホームページ見て(ちなみに同い年だった)、来る日も来る日も絵描きまくって日記見ててすごく楽しそうで、こんな生き方もあるのかと思って、心底応援していたし、ぼくもこういうふうに生きたいと思ったし、ぼくも絵描けるようになりたいと思ったし。

 あと他にもさ。格ゲーしてるときの知り合いで、クッソ理詰めでやってて全ての行動に意味と関連を持たせていたもんだから勝手に尊敬して心の師匠って呼んでた人いるんだけど。うざがられて、かなりかわいがられて、めちゃくちゃ負け越したんだけどw

 あぁいう種類の人たちが生み出したものは人を感動させる。あぁいう人たちが目的不在のまま方法論を磨き続けているなんてことは絶対にありえない。まずやりたいことがあって、その上で、それを完全にやり通すためにはどうやるかを考えてるくらいで。だからつまり、まず何をやりたいのかがあるのであって。

 人を感動させるっていうのはきっとそういうことなんだ。

 

 

 こんなクソどうでもいいところでぐだぐだしなきゃどうにもならないところがほんとどうしようもない人間だなと思う。