読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

方針転換する あとミセスノリスはさっさとくたばれ

日記

 ナボコフの文学講義とそこで扱っているテクストを原語で全て読むのはやめにする。意味がない。いや、意味はあるのだけれどとても薄く、なにより、自分が到達したいと思っている目的に対して純粋ではなかった。

 原語で通読するのは自分程度ではどう頑張っても一年以上かかりそうだが、通読するだけでいいのなら原語で読む意味はない。日本語でやればいい。しかしそもそも日本語を避けたのはなぜかと言えば、ぼくが欲していたのは単なる内容ではなく、構造や文体、細部に宿るテーマを直観的に把握することだったからだ。本をすっかり味わって消化しきりたかったのだ。つまり通読ではなく再読しなければならない。それを翻訳でやっても行きつける所に限界がある、だから原語で読もう、となっていたわけだ。しかし結局自分の情報処理能力の限界のために原語では通読するだけで精いっぱいだというのなら本末転倒している。そんなことにも気がつかず見切り発車してすでに今年も四分の一が終わろうとしている。この浅はかさ。流石はぼくだ。脳みそが腐りきっている。しかしだからこそ、この期に及んで方針転換を繰り返すことにも全くためらいを感じない。ぼくは自分を甘やかすことが大好きなのだ。

 実際、ナボコフの文学講義と扱っている本(七冊)を最初から最後まで一回だけ読むより、最初の一冊であるマンスフィールド荘園を八回読んだ方がためになる。なぜならぼくは一度目の読書で構造や文体を吸収してテーマを十全に味わえるほど大した脳みそを持っていないし、その一方で、同じものを八回も読めばようやく何か曖昧な引っ掛かりに気がつくことができる程度の感性なら辛うじて持っているからだ。

 というわけでマンスフィールド荘園はこのまま継続して読む(まだ五分の一くらいしか読めてないし)。読み方についてはもう少し考えるが、とりあえず毎日一時間集中して読む、でいいかもしれない。たしか洋書は一ページを一分で読めればいいらしかったから、まずはそこをめざしたい。今のところ一ページ十分だからなかなか挑戦しがいがある。幸い、マンスフィールド荘園はひどくおもしろいし勉強にもなっているから飽きずにやれそうだ。単純に「Mrsノリスとかいうクソババアはさっさと死ね」と思いながら読んでいるだけで楽しい。エドモンド無双は痛快。ファニーはもっとエドモンドにアピれよ。最終的に一ページ一分以内で読めるようになれたら五時間程度で通読できるようになれるはずだ。そのときにはおそらく、構造と文体とテーマを少しくらいは吸収することができているだろう。たぶんイギリスの地理と当時の文化事情にも詳しくなれる。もちろんそこらへんも補完していく。ぼくは小説を消化したいのであって、細かい情報を読み流すつもりはさっぱりない。

 

 問題はマンスフィールドの後だ。別にそのときにかんがえればいいじゃんと思わなくもないけれど、ぼくは捕らぬ狸の皮算用をするのが大好きなのでとりあえずやってくるかわからない遠未来の計画も立てたいのだ。

 ぼくはそもそも今年を小説の年、来年を詩の年、再来年を批評の年と決めていて、それぞれ読む本をリストにしてはいたのだけれど、ナボコフの講義の通読をやめるのと同じ理由から来年再来年のリストを見直す必要がありそうだ。小説については棚に買ったまま読んでいない洋書が埃をかぶっているのでどれかでいい気がする。ボラーニョ、ジュネ、ネルヴァル。そのあたりから一、二冊。あるいはナボコフ先生のお膝元に戻ってフロベールプルーストもありだ。詩についてははるか昔に買った概説書が埃をかぶっていて――。

 

 と、いう感じで来年再来年の目算についてつらつら長文を書いたのだけれど、どうにも衒学的でクソダサな文章になったので全部消しました。おつかれさまでした。

軽々しく無意味だと判ずる浅はかさについて

日記

 さっきの日記を書いて少しして、くだらないシニシズムを気取ったものだなと思った。忘却が怖くて日記を書く、それを無意味だという。なぜなのか。

 

 全てが自己完結しているから? お金につながらないから? 名誉やキャリアにつながらないから? そうだ。だからぼくは無意味だと言った。そしてその瞬間、ぼくはそもそもの前提を引っ繰り返して非論理的なシニシズムを気取ってお茶を濁したわけだ。それこそ本当の無意味だ。

 

 ぼくがなぜ日記を書くかって、それは忘れたくないからだ。メンヘラ的自己催眠を繰り返し続けることによって、忘却に負けない強い自分を作っていきたかったのだ。それは果たしている。ぼくは少しずつ強くなっている。ならば意味はある。そもそもお金が欲しくて、名誉がほしくて、これをやっているわけではない。それらがほしいのならもっと違う手立てをとっている。ぼくは「足が速くなるために絵の練習をする」ような馬鹿ではない。もしもそのような暗愚な真似をしているのであればぼくの憧れた人たちに失礼だ。貴方たちへの憧れからぼくはこのような馬鹿に振る舞いを毎日続けているのです、なんて内容の日記を書き続けることこそ本当の無意味だ。ぼくは自分の抱いた憧れに対して常に誠実でいたいと思ったのだ。死ぬまで。そして態度を文章にしたため続けることで保つべき心性を決して忘れないようにしようとしているのだ。ぼくは毎日彼ら彼女らに信仰告白をし続ける。それはそれとしてし続けなければならないことだ。小説だとか、ピアノだとか、仕事だとか、生活だとか、人間関係だとか、そういったこととはまた別の、ぼくのライフワークのようなものだ。

 ようするにぼくは自分のためだけの宗教を信じているのであって、日記とはその記録なのだ。その価値を判ずることに意味はない。心臓が鼓動していることに意味などないように、ぼくはただ日記を書き続けるだけだ。

 だというのに、そういうものだとわかっているくせに、それを続けても社会的な意味はない、などと言い出すことの滑稽さったらない。ちぐはぐすぎてそれこそ何の意味もない。笑っちゃうね。心臓が鼓動を打ち続けてもお金はもらえないってそんなの当り前だろばーか。

 

 

 

 ぼくはぼくが大切だと思うものを雪の下に埋もれさせないと決めたことがあり、そのときのことはわりと鮮明に思い出せる。昨日食べた夕飯すら思い出せない鳥頭なのに。だからそう思ったことはきっと自分にとって割と大事だったようで。ようするに、ただそれだけの話だ。

無意味

 毎日は日記をつける習慣がないから日報なんて不可能だ。


 つくづく思うのだけれど、ぼくは頑張る側ではなく頑張ってる人を見て憧れる側だということだ。



  なんにせよ毎日継続して系統だった知識や実力をつけようと努力している人がすきだ。その人たちは自分のしていることを努力だとは思っていないのならますます好ましい。


 かえって、社会的に認知されていない分野に打ち込んでいる人の方がすきだ。すきというより興味深い。その人たちはたいてい見返りがないし理解もされない。ただ自分のモチベーションだけを頼りに毎日を過ごし続ける。その人たちが孤独であればあるほど、その人たちの描く体系が美しく映えるように見える。


 そういう人たちに憧れて、真似をするように過ごしているというのはある。ぼくは特に何の変哲も無い道端の石ころであるから、そもそもはやりたいこともなかった。ぼくは文学のために生きているというより、その人たちの真似をするために文学を利用することにしたと言った方が正しい。


 ただ日記は昔から書いていて、文章を書くこと自体は真似や文学とは出どころが違う。まぁどうでもいいけど。







 ピアノの森を読んだ。思っていたのとは違うお話だった。でもそれはそれとしておもしろかった。


 自分の中にもピアノの森のような場所はあるのかと考えて、あるにはあると気がついた。

 ぼくはこのような日記を高校一年生の冬からずっと書き続けている。もう十四年程度になる。最初は手書きのノートで、次はパソコンになり、しばらくして日記用のCGIを利用し、ここ数年はブログを渡り歩いている。ブログは半年ごとくらいに消しては他社で作り直しているので、ここもそろそろ寿命だけれどまぁそれはまた別の話だ。

 ぼくには日記を書きはじめた明確なきっかけがあるし、その心象風景は今もたまに蘇る。何もかも嫌になるとふっと蘇る。それはひどくネガティブなイメージなのでぼくはたまらなくなって日記を書かずにいられなくなる。別に失恋ではないし、それどころか他人は全く関係ない。

 一言でいうならそれは忘却だ。雪のような忘却が全ての上にしとしとと降り積もって覆い尽くしていく。低脳なぼくがいつか全てを忘れることは必定なので、それが嫌でぼくは日記を書きはじめた。でもこうして日記を書き続けて思うのは、記述とはそれ自体が別種の忘却であるということだ。

 ぼくは記憶や思考を言葉にすることでそれを自分に都合がよく書き換える。無意識に。そして、忘れたくない、大切にしたいと思った出来事を自ら冒涜する。それを十余年繰り返してきた。これからもそれを死ぬまで繰り返していく。

 たまに蘇る。思春期にありがちな情緒不安定さにいたたまれなくなり、特に理由もないのに自室で一人泣き濡れて、ノートを取り出して文字を書きはじめたときのこと。ぼくはずっとそれを続けてきただけだ。本当に無意味な人生だなと思う。

三月二十日

計画

マンスフィールド荘園→一時間

ピアノ→一時間

歌→一時間


結果

マンスフィールド荘園→一時間。四ページ。

ピアノ→一時間半。だらだら。スケール練習。いのちの名前。ネットで重音の練習用譜面を見つけた。

歌→二時間。だらだら。いつもの。ロジャー本の言う通り十人の歌手の真似をすることにする。

日記というより日報

 次の一手を導くために必要なのは十全な反省であり、反省のために必要なのは為されたことの記録だ。

 何よりもこうしたことを記録していく方がとりとめもない物思いを記録するより有用には違いない。もちろん読書感想文にはそれとしての良い点があるからたまにつけておこうとは思う。


 だから今後はそのようにしていく。いやわかんないけど。まぁ適当に。




ヴァルールの合っている小説、とかいう謎ワード

 たまに思うんだけど自分、小説より歌の方が練度たけーんじゃねーかなって。

 どっちも単なるアマチュアで十年以上続けてる下手の横好きでしかないんだけど、技術的なものは歌の方が積み上げてる感じある。歌って正しい方法で練習するといつもほとんど二、三日で成長を実感できるし、数ヶ月から半年スパンでブレークスルーを感じる。それになんというか、ネットを通じて上達の方法論を仕入れるのもたやすい。一年前の自分と今の自分は違うし、二、三年前とはもっと違う。

 逆に小説は成長を感じられない。むしろ迷走感がはっきりしている。こういう方向に進んでいこうっていう明確な指針がないんだ。リスペクトしかない。
 歌はリスペクト以上のものがある。小説でボラーニョが好きなように、もちろん歌にも憧れてる歌手とか参考にしてる歌手とかが腐るほどいる。でもそれ以前に、自分の中で良くも悪くも軸となるこだわりがある。テーマがある。だから迷わない。どこに進みたいか決まってるから淡々と積んでいける。積み続けていける。でも小説はたまにどこに進んでいったらいいのかわからなくなる。テーマがない。他人への憧れは鮮明な目標を生み出しはしない。

 歌の補助としてピアノをちょびちょび練習していて、小説の補助に語学を練習しているのだけど、やっぱり確実に取り組めてるのはピアノの方だし。鍵盤から指を離さない方がいいなとかなんとなく自分で気づいてどんどん直していける。でも語学でそうはいかない。迷走してばかりだ。

 じゃあなんで作家志望なんて言ってるかっていうと、せれがせめてもの支えだからだ。歌とピアノは別に何も言わなくても勝手に続ける。たぶん死ぬまで趣味として楽しんで歌い続けると思う。でも小説は自分に言い聞かせないとたまにくじけそうになる。だから作家志望だと自称することをやめるつもりはない。小説を書き続けるためにはそれが必要だから。





 でも。
 こういうふうに頭の中を言葉にして整理しようとするといつも嘘を感じる。本当に小説のテーマがないんなら十年以上ズルズル引きずるかよっていう。ぶっちゃけ賞に応募だのなんだのはそういうのに決着が着いてからだし、正体が空っぽなまんま書き続けても本当に無意味だとは思う。そういう内面の葛藤なんざ他人にとってはクソ程どうでもいいこともわかっている。売り物を集めてる賞にこんなやつが応募するのは本当にただの迷惑だろう。だからやめる。本当にただ書ければいいだけなのだし。ぼくはオナニーしてるだけだ。ずっとそれを続けている。もっとも気持ちよくはないが。
 ぼくにとってぼくの葛藤はどうでもよくないし、変に斜に構えて賢しらぶって自分の葛藤をどうでもいいと言い捨てるのなら小説を書く意味は丸ごとなくなる。というか自分と向き合わない人生に意味なんてない。ちなみにその自分は文脈の結節点としての「自分」だ。独我論ではない。強いていうなら関係性の話だ。この世とは、巨大で緻密な蜘蛛の巣のようなもので、個人とは、糸と糸の結び目だとぼくは思っている。ぼくは別に自我が実在するとは思っていない。自分なんて糸が解ければ消えるものでしかない。





 絵画においてヴァルールという用語がある。色価とか訳すらしいけど、ぼくはヴァルールの合っている絵が好きだ。それは絵の基本であって、たぶん幼稚な評価基準なんだろうけど。でも好きは好きだ。色で緻密に見せてくる絵が好きだ。歌もそうだ。これは例えだけれど、ぼくはヴァルールの合っている歌を歌いたいといったときすごくしっくりくる。つまりヴァルールの合っている小説もまた自分の理想なのではないかとも思うのだけれど、いまいち想像できない。ヴァルールの合っている歌はわかる。実現できるかは別としてわかることはわかる。でもヴァルールの合っている小説はわからない。



 ほんと、いつも以上にとりとめのない日記。

 あとスマホで書いたときの文字の大きさ揃わないのほんとやだ。

音がかわいい

 特にジャズ知らないんだけどブルージャイアントっていう漫画で興味もって、アルバム借りてきて、その中のジャッキーテラソンという人のスマイルがなんとなく気に入って、ここ数ヶ月リピートして聞いてた。

 それで今日、たまたまこれ元曲がチャップリンの映画の挿入曲って知って、なんとなく元曲も聴いて、あれ? なんか違うくね? と思って、ジャズスタンダードとしてのスマイルを聞いて、それもやっぱり違って、事の次第を知ってぶったまげた。テラソンとんでもないアレンジぶちかましてる。

 あのキャッチーなフレーズ、テラソンが作ったん? アレンジゆーてこれほとんど。。。天才かよ。やべーだろ。なにこの人。ほんまもんの天才やんけ。泣いたわ。いやまじで。

 そしてようつべでテラソンのライブ動画見てたらほんとにブルージャイアントみたいなことしてて笑った。こんなに楽しそうにピアノ弾いてる人初めて見たわ。まぁピアノ弾いてる人なんてほとんど見たことないですけど。即興演奏でのセッションええな。つーか弾くのくそはえーよw 録音版と全然違うしw