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きちがい

 次のエクスリブリスとして愛と障害を読みおわった。

 

 新しい本を読みはじめるときは例外なく無関心からはじまる。本に向かって目を落としはしている。しかし心は他のことを向いている。精々、文字を追ってイメージをふくらませる程度。しかしいい本はすぐにぼくの心をつかんでくる。そしてぼくを笑わせにかかり、ぼくは著者のことをすっかり好きになる。

 

 これまでの経験から言うと好きになるタイプはだいたい男で、ひどく口が悪く、詩人になることができなかった元詩人志望で、なぜか小説を書いていて、戦争に青春をズタズタにされていて、異国の地に落ち延びていて、長く貧乏をしていて、あらゆる他人と全ての物事に自然な愛を抱いている。

 

 ついこの前までぼくは、そんな愉快な男はボラーニョしかいないだろうと思い込んでいた。とんだ勘違いだった。もう一人いた。ぼくが知らないだけでもっとたくさんいるのかもしれない。しかし彼らが作家であることは一種の奇跡なのだとも思う。彼らは今でこそ天才と呼ばれているけれど恵まれてはいなかった。ボラーニョは主夫になってゲームにはまりつつ40を過ぎるまでデビューできなかったわけだし、ヘモンにいたっては訪問販売で糊口をしのぎつつ30を過ぎてから外国語で小説を書く技術を練習しはじめてなんとかデビューできたのだ。控えめに言って、二人とも信じられないくらいの気ちがいだ。こういう気ちがいがぼくは大好きだ。

 

 

 彼らは古きよき過去や何かの理想に殉じている人を滑稽に描く。そしてそれは彼ら自身だ。彼らの口調にはユーモアがある、というより、ユーモアなくして何かを語ることができないかのように感じられる。

 

 彼らは現実を描いている。ひび割れて腐りかけたどうしようもない今。そこから自分を救い出してくれる夢には目もくれない。淡々とこちら側の話をし続け、あちら側の話はしない。あちら側に行きたいと切望するこちら側のぼくらのことばかり書き続けている。戦争に打ち砕かれた貴重な過去ではなくて、過去に囚われているメンヘラなぼくらを描いている。凍った時の中に存在する永遠の素晴らしき詩ではなくて、過去の力作がどう見てもクソにしか見えないことについて書いている。世界にありうべき全き正義ではなくて、その正義を叫ぶ夢想者の口角に浮かぶ泡の儚さについて書いている。本当に気ちがいだと思う。

小説の強度について

『シガレット』を読んで思ったこと。

 

 ごくごく当たり前のことなのだけれど自分のような未熟な書き手は、往々にして「好きな言葉、同じ文のリズム、過度の隠喩など、言語の全体性から彼の目を逸らさせるもの」に固執しようとする。本当にそれは捨てなければならない。そういったものは個性や美点というよりも、初心者の勘違いであることは疑うべくもない。初級者になりたいのなら初心者のときに身につけた癖は捨て去るべきなのだ。

 最初にたてたプロットにこだわって、必要な分量を作るために文章を引き延ばす悪癖は抜けたと思う。しかし逆接で文をつなぐ手癖、ボラーニョの翻訳からパクった「というか」という接続詞、奇妙に頻出する「つまり」という接続詞も捨てるべきだとは常々思ってる。

 

 作者が念頭に置いた青写真はよくわからなかったけれど、少なくともこの小説の強度は自分のような馬鹿にでも伝わった。一つの人間関係という総体を十五の人間関係という焦点を通して紡いでいくその技術はとても参考になった。とりわけ、最後に語り手がルイスであることを示したことによって小説全体が特別な色味を帯びてさらに締まったことは言うまでもない(語り手がルイスだというのは私の推測だが、最後に私が出てきた節で示された情報から恐らくそうだと思われた)。

 数か月前に百年の孤独を再読したときもまざまざと思ったのだけれど、当然ながら、お話には始まりと終わりがある。そして一つのお話の中には、さらに小さないくつもの始まりと終わりが詰まっている。一般的に、小説の強度や密度はその詰まり方にかかっている。そしてこの小説はその始まりと終わりを丹念に積み上げることがどういった効果を生むかを改めて教えてくれた。ここには様々な始まりと終わりが詰まっている。どんな小説にもそれは詰まっているかもしれないが、少なくとも、この小説はぼくの好む詰まり方をしている。

 

 しかしなぜこの小説のタイトルが『シガレット』だったのかは、ぼくにとって謎のままだ。最初はタバコが出てくる小説なのかと思った。しかしそうではなかった。これは登場人物の一人であるフィービが狂ったときに頭の中で鳴り響くリズムの節だった。そのリズムが大事だったということなのだろうか? しかしここで思い出すことには、狂ったフィービの内面を描いていたのも、語り手であるルイスだったということになる。タイトルをつけたのはルイスだろうか? それとも作者であるハリーか? さて、それは単にこの小説と巡り会って一読しただけのぼくにはわからないのだけれど。あるいはこれも同じテーマについて意匠を変えて繰り返している系の小説だったのだろうか。シガレットという節が言葉にされたのはフィービの狂った内面を通しての一度でしかなかったが、ひょっとしたら登場人物たちは同じシガレットという節をそれぞれの足元で刻み続けていたのかもしれない。これはそういう小説だったのかもしれない。

小説の自伝的要素について

 『ブエノスアイレス食堂』を読んだ。

 

 百年の孤独のような匂いを感じた。というか、20世紀のマジックリアリズム系の小説の流れを汲んでいるかのような。そういう感想を抱いてしまうのはぼくが浅はかだからかもしれないが、比喩で選ばれる言葉の端々からそういう匂いがわきたっていたのだ。そしてそれらの世界観から一歩も出れていないと感じた。いや別に出ていなくてもいいのだけれど。

 

 この小説を読んで考えたのはむしろボラーニョのことだった。最近のぼくはどうしたって事あるごとにボラーニョのことを考えている。ぼくは南米やスペイン語圏の小説をあまり読まないので、ボラーニョが描いたあの世界観はボラーニョの発明であるかのように思っているのだけれど、そういう「彼だけの世界観」のようなものが、ひるがえってこの小説には感じられなかったのだ。手法上の新しさは感じた。料理のレシピの著述がまるで意味深長な呪文であるかのように感じられて謎の迫力はあった。でも根本的にこの小説は何も新しくなかったのだ。なにより読みやすかった。

 

 別の言い方をすれば、このブエノスアイレス食堂で描かれているのは「作者が見た景色ではなかった」ように感じられたのだ。実際、この小説はエンターテイメントとして描かれたらしいから、それはそうなのだけれど、でもぼくは「その人が見た景色」を小説に期待してしまうので、一言でいえば、まぁ期待外れだった。

 

 なんだろう。ぼくは私小説を望んでいるのだろうか? そうではない。筆者の日常をだらだらと論述した小説などさっぱり読みたくない。でもボラーニョの小説を読んでいて詩人や戦争が出てきたときとか、前回の『民のいない神』を読んでいて異文化間の軋轢や移民のエピソードを読んだときとか、そこには大なり小なり作者が現れていて、ぼくはその点でそれらの小説を気に入ったのだ。

 

 もちろん、どんな小説にも多かれ少なかれ作者の血が紛れ込んでいるのかもしれない。だが周到に作者由来の生臭さが排除されているのなら、その小説にはあまり意味がない気がする。というか、読む必要を感じない。だってそこに作者がいないのであればそれをその人が書く必然性がないのだから。文体や知識や構成の話じゃあない。魂の話だ。

 

 どんなにクソだろうと作者の思想が叩き台として提出されていない小説なんて意味がない。もっとも、この小説からぼくが「作者」を感じることができるだけの感受性を持っていなかった、というだけの話であるかもしれない。

 

 

 

 

 ちなみにぼくは今、自分をまったく棚に上げて話している。

人間独特のクソみたいな類推

 民のいない神を読み終わった。


 とある山をめぐって、キリスト教とか先住民とか移民とかニューエイジとかインターネットとか人工知能とか、そういうモチーフのいざこざが時代と時系列を前後して語られる。


 モチーフは雑多なようでいて全部が同じ仕組みのヴァリアントのように思わされる。思わせるように仕組んでいる。表面的な意匠をかえて同じ問題を永遠に蒸し返しているみたいに。


 でも、移民問題キリスト教の宣教とニューエイジ思想と人工知能には同じ側面があるよってこの本を読む前に言われてもとても信じられやしない。実際、あるのかどうかというとそれは微妙なところだ。この本が言っているのはそれらの共通点を論理的に指摘することではなくて、むしろ、ちょっとした影響で人はそれらに共通点を見つけてしまうくらい蒙昧な存在なんだよって知らしめることのように思える。そしてそれは、この本のテーマや目的としてではなく、効果として伝わってくる。こういうやり方は最高にクールだ。ぼくもこういう本を書けるようになりたい。


 とりあえず三人称の練習からかな。