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ポエム風日記

日記

 例えば、教えてもいないツイッターアカウントを勝手に見てディスってくるような人は嫌いです。


 嫌いな以上、一生心を許すことはありません。


 仕事ならしかたありませんから当たり障りなく対応します。


 でも仕事の関係がおわったら何を言おうが何をしようが適当に流して、そのままフェードアウトです。


 ラインもツイッターも消しますし、アドレスも通知せずに変えます。


 誰だって心を許すのは好きな人だけでしょう。


 なぜ嫌いなあなたと本音で話をしなきゃいけないのです。


 えぇそうです、ニコニコしながら心の中じゃさっさと死ねって思ってます。


 ぼくの性格がひねくれていると言いますが、こいつには何を言ってもいいと思っていたあなたの頭も少しおかしいのではないでしょうか。


 いいえ、あなたをバカにしているのではありません。


 これ以上関わりたくないだけなのです。


 さようなら。

気づいたら読書感想文ブログになりかけるよね

日記

 次のエクスリブリスとして煙の樹をめくりはじめたけれど文字が頭に入ってこない。つーかなげぇ。


 日常生活では例によって人間関係で悩むし、転職を画策しているけれど中々うまくいかない。これに関しては経歴的な意味で自業自得だから淡々とやり続けるしかない。


 ところで、なんにせよ自分には小説があって幸せだと思う。おかげで全くの虚無に陥ることはない。変な言い方だけど、文学が自分にとって宗教のような役割を果たしている。それは自己実現や成り上がりのための道具ではない。個人より上のレベルにある歴史や営みを信じるための触媒になっている。


 今んとこ応募中で結果待ちなのは去年の秋に撃った一発しかない。暮れに撃ったのは逸れた。だからそろそろ新しい弾を完成させて撃ちたい。弾作り職人としてはまだ未熟なので、修行の時間が必要であり、やっぱり最低限まとまった金と時間を融通できる仕事につきたいわけで。


 なんていうかこう、ダムダム弾みたいな弾を作れるようになりたいんだよなぁ。

オネエなの? って言われた

日記

 ほんとめんどくせえ。もうめんどくせえから変な取り繕いをやめてそうだよって言いたくなる。言わないけど。女顔ではないが童顔なのが悪いらしい。

 

 あと人は外見が九割ってマジだわ。実際に言ったこと言ってないことなんてどうでもよくて、相手の顔の印象で全部決め直してんちゃうかって思うことよくある。あるいは心の目。ほんま心の目に頼る人多すぎる。本当の目を開け。あとできたら耳も開いてくれ。

 

 わいが童顔なのは苦労してないからというより、中学んときから肌に死ぬほど気を使って化粧水とお友達になったり顔面トレーニングしたりしてきたからやぞって言いたくなる。言わんけど。男なのにぶりっ子が板についてる感ある。もう三十なのに。ぼくはどこで外面の形成を間違えたのだろうか。しかし外面って自分の一存で決まるもんじゃないよな。周りのニーズとか役割とかで固められてく感ある。そこでぼくにぶりっ子が回ってきて固まってるあたり闇を感じる。

 

 たぶん全てタバコを吸ったせいだ。タバコを吸うと目撃者から100パー意外だと言われ、がっかりしたと言われ、絶対禁煙しろと言われる。勝手にがっかりすんのはやめろ。殺すぞ。やはり、久しぶりにタバコを吸ったせいでぼくの運命の理が狂っている。また禁煙しなければならない。しかしつらい。タバコ吸いたくてたまらない。煙だいすき。脳が溶けてダメになってく感じがたまらない。助けてボラーニョ。どうして死んじゃったの? もっと貴方の書いた文章を読みたかったよ。

 

きちがい

エクスリブリス

 次のエクスリブリスとして愛と障害を読みおわった。

 

 新しい本を読みはじめるときは例外なく無関心からはじまる。本に向かって目を落としはしている。しかし心は他のことを向いている。精々、文字を追ってイメージをふくらませる程度。しかしいい本はすぐにぼくの心をつかんでくる。そしてぼくを笑わせにかかり、ぼくは著者のことをすっかり好きになる。

 

 これまでの経験から言うと好きになるタイプはだいたい男で、ひどく口が悪く、詩人になることができなかった元詩人志望で、なぜか小説を書いていて、戦争に青春をズタズタにされていて、異国の地に落ち延びていて、長く貧乏をしていて、あらゆる他人と全ての物事に自然な愛を抱いている。

 

 ついこの前までぼくは、そんな愉快な男はボラーニョしかいないだろうと思い込んでいた。とんだ勘違いだった。もう一人いた。ぼくが知らないだけでもっとたくさんいるのかもしれない。しかし彼らが作家であることは一種の奇跡なのだとも思う。彼らは今でこそ天才と呼ばれているけれど恵まれてはいなかった。ボラーニョは主夫になってゲームにはまりつつ40を過ぎるまでデビューできなかったわけだし、ヘモンにいたっては訪問販売で糊口をしのぎつつ30を過ぎてから外国語で小説を書く技術を練習しはじめてなんとかデビューできたのだ。控えめに言って、二人とも信じられないくらいの気ちがいだ。こういう気ちがいがぼくは大好きだ。

 

 

 彼らは古きよき過去や何かの理想に殉じている人を滑稽に描く。そしてそれは彼ら自身だ。彼らの口調にはユーモアがある、というより、ユーモアなくして何かを語ることができないかのように感じられる。

 

 彼らは現実を描いている。ひび割れて腐りかけたどうしようもない今。そこから自分を救い出してくれる夢には目もくれない。淡々とこちら側の話をし続け、あちら側の話はしない。あちら側に行きたいと切望するこちら側のぼくらのことばかり書き続けている。戦争に打ち砕かれた貴重な過去ではなくて、過去に囚われているメンヘラなぼくらを描いている。凍った時の中に存在する永遠の素晴らしき詩ではなくて、過去の力作がどう見てもクソにしか見えないことについて書いている。世界にありうべき全き正義ではなくて、その正義を叫ぶ夢想者の口角に浮かぶ泡の儚さについて書いている。本当に気ちがいだと思う。

モチーフの重みについて

 シガレットから得たもう一つの示唆について。


 シガレットがモチーフとしていたのは身近な人間関係だった。しかしある種の考え方において、身近な人間関係とは小説のモチーフたり得ない。なぜならそれはモチーフとして卑小にすぎ、大方の読者にとってどうでもいいことだからだ。


 しかし小説の語り手の立場に立つのなら、自らが語るモチーフは何であっても「どうでもいいこと」ではない。それは語り手の人生の断片であって、その断片は彼彼女の人生において他の断片よりも重みのある断片だからだ。


 だから書き手は語り手のために頑張らなければならない。書き手は語り手の一番の読者になって、あなたの語らんとしていることはどうでもいいことではないのだと心の底から共感し、語り手のお話に普遍的な重みを与える手伝いをしなければならない。


 この点においてハリーはとても熟練した書き手だった。彼はルイスの語りをこのように文字にすることに成功し、縁もゆかりもない時空を超えた読者の一人であるぼくに強い印象を与えることに成功したのだから。


 ここまで書いて気がついたのだけれど、ぼくがこの小説を好きになった理由はボラーニョを好きになった理由と一緒みたいだ。ヴィヨン詩の作者を好きなった理由と一緒でもある。ジュネを好きになった理由でもある。




 ぼくはまだまだ未熟な書き手で、がんばらなければならない。

小説の強度について

エクスリブリス

『シガレット』を読んで思ったこと。

 

 ごくごく当たり前のことなのだけれど自分のような未熟な書き手は、往々にして「好きな言葉、同じ文のリズム、過度の隠喩など、言語の全体性から彼の目を逸らさせるもの」に固執しようとする。本当にそれは捨てなければならない。そういったものは個性や美点というよりも、初心者の勘違いであることは疑うべくもない。初級者になりたいのなら初心者のときに身につけた癖は捨て去るべきなのだ。

 最初にたてたプロットにこだわって、必要な分量を作るために文章を引き延ばす悪癖は抜けたと思う。しかし逆接で文をつなぐ手癖、ボラーニョの翻訳からパクった「というか」という接続詞、奇妙に頻出する「つまり」という接続詞も捨てるべきだとは常々思ってる。

 

 作者が念頭に置いた青写真はよくわからなかったけれど、少なくともこの小説の強度は自分のような馬鹿にでも伝わった。一つの人間関係という総体を十五の人間関係という焦点を通して紡いでいくその技術はとても参考になった。とりわけ、最後に語り手がルイスであることを示したことによって小説全体が特別な色味を帯びてさらに締まったことは言うまでもない(語り手がルイスだというのは私の推測だが、最後に私が出てきた節で示された情報から恐らくそうだと思われた)。

 数か月前に百年の孤独を再読したときもまざまざと思ったのだけれど、当然ながら、お話には始まりと終わりがある。そして一つのお話の中には、さらに小さないくつもの始まりと終わりが詰まっている。一般的に、小説の強度や密度はその詰まり方にかかっている。そしてこの小説はその始まりと終わりを丹念に積み上げることがどういった効果を生むかを改めて教えてくれた。ここには様々な始まりと終わりが詰まっている。どんな小説にもそれは詰まっているかもしれないが、少なくとも、この小説はぼくの好む詰まり方をしている。

 

 しかしなぜこの小説のタイトルが『シガレット』だったのかは、ぼくにとって謎のままだ。最初はタバコが出てくる小説なのかと思った。しかしそうではなかった。これは登場人物の一人であるフィービが狂ったときに頭の中で鳴り響くリズムの節だった。そのリズムが大事だったということなのだろうか? しかしここで思い出すことには、狂ったフィービの内面を描いていたのも、語り手であるルイスだったということになる。タイトルをつけたのはルイスだろうか? それとも作者であるハリーか? さて、それは単にこの小説と巡り会って一読しただけのぼくにはわからないのだけれど。あるいはこれも同じテーマについて意匠を変えて繰り返している系の小説だったのだろうか。シガレットという節が言葉にされたのはフィービの狂った内面を通しての一度でしかなかったが、ひょっとしたら登場人物たちは同じシガレットという節をそれぞれの足元で刻み続けていたのかもしれない。これはそういう小説だったのかもしれない。

こわ

 なんか今デパート歩いてて

ふと思い出して気づいたんだけど、


前に書いて封印したやつ、

序盤で虫はらってんのに、

終盤で意味わかんないセリフ吐いてたような気がする。。。


 自分頭わいてんな。。。

帰ったら確かめてみよ。