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なんか思い出した

 気を抜くとメンヘラの自己催眠記録みたいになる。別にいいけど。なんていうかもっとどうでもいい日記を書きたい。小説に関係することとかしばらく書かなくていい気がする。





 人として立派になることはどうでもいいけれど、人として立派になることがぼくの目的に役立つのなら頑張ろうと思う。






 どうでもいい話なのだけれど、以前格ゲーをしていたことがあった。

 なぜかというと動画サイトで見かけたあるキャラのエピソードムービーを見て感動して泣いたからだった。そのムービーを見たときからそのゲームが終わるまでずっと同じキャラを使い続けた。でも今は後悔している。それはゲームで時間を無駄にしたからではなくて、そのキャラでもっと先に行けたはずだからだ。ぼくは中の上だか上の下だかくらいの位置まではがんばったけどその後だらだらし続けた。

 あのゲームが終わった後ぼくはもうさっぱりゲームをしなくなった。当時ぼくは周囲からゲーマーだと思われていたけれど、実際ゲームはどうでもよくて、ただ単にあのキャラと行けるところまで行きたかっただけなのだ。実は新作にもそのキャラは出てるけどムービーを見てもいまいちノレなかったのでやってない。






 ところで、この文体の素は荻原規子の日記だ。まだ彼女が個人ホームページで日記を書いていた頃、ぼくは高校生で、毎日日記を読んでいて、彼女がすすめる児童書をかたっぱしから読んでいて、彼女がほのめかす文章作法から自分の文体を作り上げようとした。当時のぼくは彼女のファンでそのまなざしに共感していた。そしてその文体はとても綺麗なものに思えて、是非身につけたかった。




 あとは都和だ。当時ぼくはネット上で見つけた都和というイラストレイターのことを気に入っていて、彼女の日記の文体模写を行なっていた。





 ぼくは他人の文体模写をすれば自分の頭をぶっ壊してもっとマシな生き物に生まれ変われると思っていた。思春期特有の意味不明な劣等感と焦燥感で毎日死にそうになっていた。生まれ変わりたかった。


 でもたぶんそれは今も変わらない。







 自分でなくなりたいがために文体模写をする人間の小説を書くとしたら、それをぼく自身の話でなく単なる小説として書くことができるだろうか。でもそうでなければ書いたって無意味だ。

感情廃棄物

日記

 くだらないテーマはこの日記で消費して、決して小説に侵入してこないようにしたい。それはぼくの日常かもしれないが書きたいことではない。いや別に書いてもいい。ただぼくは単なる愚痴を書きたいわけではない。自分の気に入らないやつを妄想の中でぶちのめすために小説を書くような無様な真似だけはしたくない。いや別にそれでもいいっちゃいい。でもぼくは、なんというか、もう死んでしまった好きな作家たちに書いたものを読んでもらえたときニヤッと笑ってこいつはいいなと言ってもらえそうなものを書きたいだけだ。それだけだ。あとはどうでもいい。承認欲求が~とか箱庭の妄想が~とか、あーだこうだとか、とにかくみみっちくてくだらないことはどうでもいい。ジュネが語っていたレンブラントみたいになりたい。ぞうもつリアリズムに入りたかった。ノーベル賞作家の講演会に乱入してめちゃくちゃにしてインタビューを受けたかった。

 

 

 

 こう、なんていうか、まず登場人物がいる。そいつらの関係を描く。関係の変質を追いかけていく。読んでいく。最初は遠くからになる。でも文字でそれを描くせいで不思議な距離感になる。遠いようで近い。しかも段々なぜか抽象的に近づいていく。そしたらそいつらがスパ―ッとどっかにいっちまう。でも気がついたらそいつらがすぐ近くにいて、そいつらがこっちにきたのか読者がそいつらを追いかけていったのか、それはわからないけれど、とにかく気がついたら読者の割と近くに登場人物たちが立っていて、よぉって声をかけてきて、それでお話が終わる。そういう感じの小説が書きたい。っていうか読みたいのだ。もっと。だから書きたい。

 

 

 

 

 

 基本的に小説読んでるって言うと「現実に興味ない引きこもり」って思われるし、小説書いてるって言うと「一発大当たりを狙ってる夢見がちな人」だと思われる。昔は大まじめにむっとしてたけど、今は「そうっすね~」としか言わなくなった。ネットがあると自分の興味ある話題しか調べないから世の中に読書家がたくさんいるかのような気がしてくるけれど、実際はそんなことない。現実、蓮歌の世界観を理解したくて水無瀬百吟を繰り返し読んでるときちがいだと思われる。でも実際そうなのだ。ぼくはきちがいなのだ。仕方ないからそれを認めて開き直っているとますますきちがいだと思われる。とにかくどうにかして更生させようとしてくる。読書する人は病気で狂っているらしい。なぜならたくさんの大人が読書などせずとも立派な大人として生きてこれたから。読書は余分で不必要なものなのだと。子供の頃は本を読もうっていうスローガンをよく見かけたけど大人になったら本を読むことが間違いだとみなされる。せめてラノベを読んで美少女に恋している方がわかりやすくてマシだとさえ思われている気がする(いや、よく隠れてボーイズラブを読んでうきうきしてはいる)。でもたまに小説の著者の頭の良さに感動して、その感動を伝えることくらいはよかろうと思って話をすると、新興宗教の布教をされたかのような顔をする。「非現実な妄想に時間を使っている暇があったら親孝行をしろ」と言われる。物質が原子でできているということすら妄想として片付ける人々は基本的に目に見えないあらゆるものを信じない。本の著者の思考なんて不気味なものに感動するなんてゾッとする。外で働いて金を稼いできたら家では家族で酒を飲みながらテレビを見て寝てまた仕事に行く、そういう普通の生活をしていれば本を読む暇なんてないはずだ、そういう生活がなぜできないんだ。頼むから普通のことをしてくれ。余計なことを考えないように肉体労働をした方がいいんじゃないのか? そしてぼくはいつものようにあきらめて部屋に戻って本を読む。実際、たぶんぼくは頭がおかしいのだ。なにしろぼくはそもそも現実が嫌だから本を読んでいるわけではない。本が妄想だとすら思っていない。それは誰かが現実に書いたものであって、網膜がとらえる目の前の光景ではないにせよ、かつての現実だったとすら思っていて、どこかの誰かがどうしても書き残しておきたかったそういう現実にぼくは敬意を払っている。基本的に敬意を払ってページをめくっている。もちろんぼくは家族で仲良く酒を飲んでテレビを見ることが嫌なわけじゃないしたまにはそうする。でも本を読むことでしか満たされないこともある。ぼくは現実逃避をしているのだろうか。そうだね。現実逃避をしているんだ。逃避のために本を読んでいるんだ。ぼくはなんて無礼なやつなんだ。本に対して無礼なやつだ。最初に本を読んだときはこうじゃなかった。ただおもしろかったのだ。だから読み続けた。それだけだ。逃避も生活も現実も妄想も仕事も自負も何も関係ない。ただおもしろかったから読んでいたし書いてみたくなった。それだけだ。本当にそうか? いじめられっ子だったろう? 逃避だったんだろ? ぼくは過去を美化して自己催眠をかけて読書はまともなことなんだと言い聞かせて自己正当化しようとしているんだろう? あぁきっとそうだ。くだらねぇ。

 

 

 

 大学生のとき、研究室の助手の人に何度も何度も「他人に期待するな。自分だけを信じろ」と言われた。でもぼくは話半分で聞き流していた。「レポートを書くときは都合の悪い情報を捨象しろ」とも言われたせいで、その人が最初は気に入らなかったからだ。でもその人はぼくが直接見知っている人間の中ではじめて小説を書くことを応援してくれた人でもあった。当時ぼくは個人ホームページに短編小説や漫画をのせまくっていて、なぜかあの人にホームページがばれていて、短編も漫画も全部読まれていた。そしてぼくがホームページの日記である日「モチベが上がらないから、誰かに自分のために小説を書けと言われたい」と書いたら次の飲み会で「お前俺のために小説を書け」と真顔で言ってきたことがあった。二十も年上だったけれど、ぼくは当時すでに(というか生まれたときから)ホモだったので好きになった。その人は既婚者だったのでもちろん諦めた。飲み会の後二人で締めのラーメンを食べに行ったくらいで満足した。飲み会のときよく、仕方ねぇなお前俺の隣に座れと言われた。ぼくは避けたり隣に座ったりを繰り返して自己完結することに成功した。助手をやめて大学を去るときにはたくさん応援の言葉をくれた。お前は間違いなく大器晩成だから(つまりそう簡単には作家になれないから)細く長く頑張れよ、みたいなことを延々と。うるせぇなぁこのおっさんと思った。とてもいい思い出だ。

 

 

 

 

 別に嫌なことばかりではない。いいこともたくさんあった。たぶんこれからもある。でもそういったことはここで吐き出して小説には影響しないようにしたい。小説は自己表現だけれど自己表現ではない。

 

 

 

 

 まぁとりあえず自分も過剰反応はしてる。嫌いが嵩じると無視したりわざと険悪な空気作ったりするから、それは自分が悪いけど。

 

 

 はぁめんどくせ。

パワーワード感がある

 マークトゥエインの『アーサー王宮廷のコネチカットヤンキー』ってめっちゃ異世界モノやんけ。つーかこのタイトルやべーな。いろんな意味ですげーわ。

守護霊の微笑み

日記

 例によって心が折れている。

 

 わからん。

 エクスリブリスを全て読んでいる作家志望と、ナボコフの文学講義及びそこで挙げられている小説を全部原語で読んでいる作家志望だったらどっちになるべきか。どっちにもなるべきなのはわかっている。でも両方同時に賭けるのは凡人には無理だって最近気がついた。気がつくのが遅い当たりますます低能っぽくてどうしようもない。もう二月が終わる。くそすぎる。

 ところで、なぜかぼくの守護霊が後者をやれとずっと言ってくる。どうして前者じゃなくて後者なのかがわからない。正直ヘモンみたいな作家はもっとたくさんいるはずだ。一刻も早くそうした作家と巡り会いたい。だから現代小説を読んでボラーニョやヘモンみたいな人間を見つけることで得られる利益はかなり大きい。ならエクスリブリスを読めばいいじゃんという話なのだけれど。ぼくはなぜか迷っているし守護霊はナボコフを読めと喚き続けている。

 「どんな試練も永遠ではない」守護霊が突然耳元でつぶやいた。意味が分からない。いや、少しわかる気がする。ナボコフの文学講義は永遠に続いているわけではない。終わりがある。しかし現代文学は永遠に続いていく。今を追いかける営みはいつまでたっても終わらない。だからまずは終わりがある方に手をつけろと、そういうことだろうか? そう思って守護霊を見上げると彼(?)はにっこりと笑った。

 

 だからぼくはそうすることにする。

個人の認識範囲

日記

 おもしろい話を見かけた。

 

 人は150人の社会までしか認識できないんだって。

 

 ここで言う社会っていうのは自分対他人だけじゃなくて、他人同士の関係まで含めた社会。つまり自分と149人の関係と、149人の他人の間にある関係網。人の認識はそれ以上を把握しようとするとパンクするんだってさ。

 

 人の認識力が有限だってことは感覚的に同意できるけど、それをこういうわかりやすい形で表現されるとかなりおもしろい。

 

 例えばぼくにとっての149人は誰なんだろうって考えるとかなり興味深い。たぶんボラーニョとかもそこに入れていいんだよね? 興味を持って情報収集してどういう文脈で彼が評価されてるのか調べて把握しようとしてるし。

 

 ただ、人によっては具体的な人間じゃなくて「常識」みたいな非人間的概念を友人のように扱って社会の中に組み込んでる気がする。そして具体的な人間のうち、あいつは「常識」と仲がいい、あいつは仲が悪い、みたいに考えることで自分にとっての社会を形成してそう。そういう抽象的な認識操作については何も書かれてなかった。研究されてはいるんだろうからそのうち気が向いたら本探して調べてみたいな。

 

ただの日記

日記

 暮れに送ったやつの結果が出てた。もちろんそれは撃沈だったんだけど、それよりもその賞の2chスレが魔境すぎてやべーわ。

 新人賞に応募したというだけで応募者を能無し扱いする糖質や意味不明の長文を連発する糖質、編集者を攻撃する糖質や中の人を気取っている糖質とかが多くてすごい。まるでボラーニョの小説やん。やっぱりボラーニョはすごい(真顔)。


 あと転職決まった。

 家から車で十五分。九時五時の仕事で年間休日120以上。やったぜ。派遣会社の人たち親身すぎて頭上がらない。がんばって仕事覚える。そして小説のネタにするw


 あとボーイズラブ漫画の感想のライティングで小遣い程度を稼げるようになった。もっと文体崩せとかゲスく書いてくださいとか指示きて楽しい。ホモによる金でさらなるホモにつぎ込む黄金サイクルが完成しつつある。

戯作と現実

日記

 小西甚一の日本文学史に、日本文藝は戯作文学からの影響を脱しきれていないと書いてあった。


 なんとなくそのことが頭の隅に残っていて、つらつらとたまに考えていて、今回、自分の小説のテーマってなんなんだろうと考えていてそのことが結びついてきた。



 煙の樹というアメリカ人の小説を今読んでいて、そのあとがきに、この作者はいつもアメリカが生んだ戦争のことを書いているとあった。それがテーマなのだと。それは現実だ。しかも読者が読みたい「お話」として書くのではない。なんらかの現実の片鱗や空気感をつかむために、それを求めて、未到の荒野を少しづつ測量していくかのような小説。そういう書き方。


 そしてふと思ったことには、ボラーニョやへモンもそれと似たことをしていたのだと。背景は違えど、みんな自分にとって見過ごすことも過去の暗闇に捨て去ることもできなかった過去を諸手で一つずつつかみ、握りしめて固めていた。


 前にポーランドのレムによるディック論を読んでいたときも似たようなことに出会った。彼は他の全てのアメリカ人SF作家を退けてただディックのみを揚げる。なぜかと言えば、ディックはSFというメガネを通して我々の危うい現実感覚を描かんとしているからだと。他のSF作家のように、宇宙人との戦闘や機械との戦闘などの非現実的でどうでもいいことに話を持っていかないからだと。


 そしてここで日本の戯作文学に戻ってくれば、戯作文学のテーマは、ぼくらの生きているこちら側ではなくて想像力の向こう側の話なのだ。向こう側について書くほとんどのそれは、先行作品を踏まえたテンプレであって、読者が筋の小異を捉えて微細な振動を楽しむ通のためのエンターテイメントなのだ。まぁ、自分は西鶴置土産しか読んだことがないからあまり偉そうなことは言えないのだけど。


 小西甚一の言う戯作文学とは要するに、現実とは隔絶したラブコメ空間で繰り広げられる男女の恋愛模様のことだろう。ぼくは別にラノベのことを言っているのではない。ほとんどの日本の小説は、そしてぼくのようなど底辺の作家志望が描こうとする作品においてすら、そのような空間は否応なしに出現するし、逃れることはとても難しそうに思える。


 しかしボラーニョやへモンは軽々とそういったものをこえて自分の文学を、自分の見てきた現実の片鱗を、やすやすと語りだす。きっと彼らの国にも彼らの戯作文学はあるのだ。でもそういったものに足を取られないで語りだす。


 だからぼくはボラーニョを好きになったのだ。ベラーノが受賞者リストにセンシニを見つけたとき、野生の探偵たちの僕が臓物リアリズムに入ったとき、読んでいたぼくは震えたのだ。少年の頃のへモンが一家の財産をポケットに、冷蔵庫を買うため隣町行きの電車に乗ったとき、ぼくは笑ってしまったのだ。そしてディックの小説が破綻してラストがめちゃくちゃになってしまうのは必要経費なのだろう。そしてたぶん、西鶴はきっと、ボラーニョたちのようにこちら側についても書いた人間だ。当時は全然売れもしない世話物というジャンルを誰に頼まれるわけでもなく書いた西鶴の置土産は、きっと彼にとって、先行作品を踏まえたテンプレではなくてどうしても書かざるを得なかったことなのだろう。