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引き出しに物を詰める

日記

 ぼくは引き出しがないかのようだ。というより、引き出しを作ることをあえて避けてきた感がある。「あるテーマについての細かい知識を大量にため込むことよりももっと大切なものがあるだろう」、そう思って生きてきた。でも今振り返ると、その態度が正しかったとは思わない。でも、間違っていたとも思わない。

 今改めてその考えについて検討すべき点は、その、「もっと大切なもの」ってなんだって話だ。その正体をもっと具体的に詰める必要がある。ぼくはそれがどこかにあると思っていた。呼びうるならば本質とでも呼びうる何か、それさえつかめたら些末な事など全てどうでもよくなる何かが、きっとあるに違いないと信じていて、それを探そうとしていた。そうだ。探そうとしていたのだ。ぼくの知らない何かが世界のどこかにはあって、それを見つければ何とかなると思っていた。この点でぼくは大きなミスを犯していたと思う。今ならわかる。それは探すものじゃない。作るものなのだ。

 

 例えば京極夏彦はすごい。初めて読んだのは高校生のときだけれど夢中になって『塗り仏の宴』まで一気に読破した。妖怪や文化背景についての知識量がすごいのだ。そしてぼくはこの作家を、本質的なものを持っておらず引き出しだけで勝負している作家だとみなして軽蔑した。もちろんこれは嫉妬の裏返しだったのだが、今語るべきはぼくの性格の悪さではない。ぼくが言いたいのは、ぼくが軽蔑していたものこそ、実際には本質だった、という話だ。繰り返すが妖怪や文化背景についての知識量が本質だと言っているのではない。そういったものを積み上げられるほどの推進性が本質なのだ。あるいは、彼はそういった知識を積み上げながら自分の中に本質を作っていった、とも言えるだろう。知識は本質ではなく、本質の無い知識など無意味だが、知識がなければ本質はありえない。

 

 こういった点を踏まえて、ぼくの中の引き出し、ぼくの中の本質に思いを凝らしてみると、引き出しらしきもの、本質らしきものがないわけではない。だいたい三十過ぎてまで執筆に固執している時点で何かはあるものだ。知識の体系を作ることを避けてこようがぼくの中にどうしてもできあがってしまった知識の体系はあるし、十六のときから変わらず輝いていてどうにも捨てられない理想というものはある。別にぼくは一発逆転大当たりの宝くじとして小説を書いているわけではない。ぼくはくだらないことをがたがたほざくのをやめ、自分の中の引き出しのラベルを意識し、もっとそこに物を詰め、自分が信じた本質に恥じぬ小説を書けるように日々努力していくしかない。

 

 ぼくは結局のところ、高校生一年のときに読んだ戯言シリーズの、その中でもクビキリサイクルクビシメロマンチストの呪縛から抜け切れていない。そんなぼくの感性はもう時代遅れなのかもしれないけれど、だとしても、そこからはじめるしかない。日本文学の伝統を無視しているかのようなこれらの作品が、日本文学の中のどういう位置に当てはまるのかを冷静に見聞する必要がある。来年は明治から昭和晩期までの近代小説を読み直すつもりだ。それと同時に世界文学も王道をさらいなおして、小説とはそもそも何かという事を捉え直していきたい。ナボコフの文学講義を利用しようと考えている。うまくいけたら再来年は詩だ。その次は批評理論だ。すでに読むべき本は全てリストアップしてある。こうしたことを通してまずは最低限まともなマップを作る必要がある。今の自分のマップは穴だらけでどうしようもない。ぼくは大まじめだ。徹底的なものにしか意味はない。西尾維新の初期二作が見せてくれた世界の向こう側に、それをもっと進化させたところにきっと素晴らしい見たこともない景色が広がっていると思った高校生の頃の夢がいまだに忘れられないのだ。あの小説の向こう側に広がっている世界にはきっと意味があったと思っていて、いまだにそれは否定できないのだ。だからそれが本当にあるのかどうかを確かめたい。ないと分かれば、なぜないのかを踏まえて自分の望む景色を描けばいい。あるとわかればそこへいくだけだ。色川武大ジャン・ジュネもボラーニョも小西甚一フーコーも好きだけれど、それでも西尾維新のことをいつまでもずるずると忘れられないのだから、まずはその初恋を全力で徹底的に終わらせる必要がある。そこからはじめなければ何もはじまりようがないのだから。

 というわけで、来年からは今年以上に引き出しへ物を詰めていく。色んな道具を。様々な地図を。そして自分の本質をさらに鍛え上げていく。楽しみで仕方がない。