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他人からの視線

日記

 昔は「小説を書いています」なんて人に言えなかった。恥ずかしかったから。でも今はどうでもよくなった。もちろん自分からわざわざ「自分小説書いてるんすよ」なんて喧伝することはないけれど、話の流れで「小説を書いている」と言うことになったら言う。そして相手がどういう反応をしようと適当に受け流す。他人に理解や助言を期待したって無意味だということは当の昔に悟っている。

 今の上司はぼくが何も説明していないのにライトノベルを書いていると思っている。まぁそれは当たっているのだけれど、でもぼくが夏目漱石森鴎外を好んで読む人間だとは露とも思っていないし、ましてや今ぼくがゴンブロヴィチやレムを読んでいるとは考えていない。というかそんな作家知らないだろうし、ポーランドの作家としてゴンブロヴィチやレムが存在することを知らずに生きて死んでいくのだろうし、仮にぼくが彼らについて説明したとしても心底どうでもいいと思ってすぐに忘れるに決まってる。いや、説明なんてするわけないけど。そして実際、ゴンブローヴィチやレムなど世の中の大半にとってはどうでもいいのだ。しかしぼくにとっては大切だ。なぜならぼくはものを書くからだ。作家志望だからではない。作家になろうがなるまいがものを書き続けるからには、ゴンブローヴィチやレムは大切だ。もちろん夏目漱石森鴎外も。他の人がどうでもいいと言おうが、ぼくはぼくのためだけの理由によってこれらの作家をどうでもいいとは思わず、深く愛し、読む。

 所詮、何かを突き詰めるという事は孤独な作業なのだ。ぼくはよい小説を書いて他人に褒められたいのではない。他人とのつながりを求めるならば飲み屋やバーに通えばいい。ネトゲをすればいい。ニコ生をすればいい。ツイッターをすればいい。でもそうじゃないのだ。ほしいのは他人とのつながりじゃない。実際、ある程度の期間そうしたことに興じてみたことがあるのだけれど、それでぼくは満たされなかった。結局、ぼくはぼくによって納得したいのだ。納得のために他人の反応を参照することはある。でも他人の反応のために生きているのではない。他人を喜ばせたいだけなら小説である必要はない。他人を感服させたいのだとしても小説である必要はない。なぜ小説なのかと言えば、結局それは、文学と勝負をして納得を得たいからだ。そうでないならば小説である必要はない。漫画でもなく音楽でもなくアニメでもなく、小説なのだから、そこにはそれ相応の必然性があるのであって、ぼくは小説において納得したいのだから、小説を書いているのだ。たぶんまだこの種の問題は詰め切れていない。小説以外で代替可能であるのなら無意味だから、小説でないとダメな、小説でしかたどりつきえないような、そういう純粋な目的を得る必要がある。これはもっと詰めなければならない。もちろん小説が単なる日記ではなく、読者を前提としてものであるという考え方があることはわかっている。しかしぼくは読者のために書いているのではない。読者のために書くのならば、極論、官能小説でも書いていればいいということになるではないか。でもそうではないのだ。読者としてのぼくは、作家にサービスを求めない。ただどこかへ、予想もしなかったどこかへ連れていってくれることを求める。それは旅なのだ。もちろん勝負でもある。つまり官能小説ではない。

 

 

 今日は日々の基礎トレーニングとして何をするかを決めた。もちろんこれまでだって何かしらはやっていたのだけれど、今日は固定すべきメニューを決めたのだ。

 宗祇(と肖伯と宗長)の『水無瀬三吟』を毎日読むことにした。和歌的世界観を自分のものにしたいとは常々思っていたし、宗祇の腕の良さも知りたかったし、連歌を読み慣れたいとも思っていたから、そうすることにした。毎日続けて創作における筋トレや素振りのようなものとして習慣にしていくつもりだ。

 本としては小西甚一の『宗祇』の後半に収められているものを使う。以前、初見で読んだときは視線が滑ったが、いざ腰を据えて取り組むと意外に読めた。小西甚一の註が素晴らしく、親句・疎句の付け合いも感覚で見とれそうな気がしてくるほどだ。興が乗ったら『湯山三吟』も読んでみたい。

 

 

 そうだ。ぼくは小説を書くことを自分の中で必然にしなければならないと思っているけれど、唯一、詩、あるいは短歌や連歌、発句、というか俳句は同じ射程の中に含めてもいいと思っている。ようするにぼくは言葉で勝負をしたい、そして納得したいという事だ。

 ひるがえって、最初のテーマに戻るけれど、こんなこと他人に相談したってどうしようもないのだ。そもそも相談する方が間違っている。迷惑をかけるだけだ。ぼくはかなりの使命感と目的意識とをもちながら、冷静に、宗祇の『水無瀬三吟』を日々の基礎トレーニングにしようと決めたのだ。でも「それはいいね」だとか「それはだめだ。こういうのをした方がいい」だとか「なぜそれをするんだ」とか、とにかく建設的な批判およびアドバイスをくれる人に出会ったことは一度もない。それはある意味で当たり前だ。自分と同じ道を歩いている人はこの世界に一人もいない。文学など度外視しても、本当は誰もが別々の道を歩いている。だから仕方がないのだ。だからこそ、ぼくの小説を書きたいという願いを叶えてくれるのはぼくだけだ。他の誰も叶えてくれない。だからぼくは書き続けるしかない。