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起点と視座

日記

浦沢直樹のプルートを読んでいて思ったのだけれど、あの人の世界観の下敷きには戦争があるような気がする。以前から浦沢直樹を読んでいて、この人はとても他人でぼくとは人として合わないと感じることが多かったのだけれど(お話はおもしろい)、たぶんぼくとは世界観認識の下敷きが違うのだ。

対してぼくは、身近な人間関係や慣れ親しんだアニメマンガ的想像力から出発する傾向がある。良くも悪くも。つまりぼくはありふれていて瑣末なことを語り出す傾向にある。唯一見れそうなことを言えば、身近から出発するもののこうしてつらつら考え込む傾向があるので文章に変な色がつく。良くも悪くも。

 

ここでぼくの好きなロベルトボラーニョについて少し考えてみると、彼の世界観認識も身近な人間関係を起点としているように思われる。しかしその背景にあるのは生まれ育ったチリ、そしてメキシコやスペインといったあの世界だろう。そこがぼくと圧倒的に違う。「そこ」では戦争に生活をめちゃくちゃにされたものたち(ボラーニョ自身、あるいは第三帝国の火傷など)や、まるで共食いじみているクソみたいな犯罪がひしめいていて(タイトルは忘れたがカフカに倣ったネズミの短編小説にそれは顕著だ)、彼の小説はそういった文化を背負って語られている。

 

こうした個人個人の起点によって、その人の物書きとしての限界は定められているような気がする。こうした起点は自分で選ぶことのできるものではなく、ほとんど環境によって押し付けられるもので、個人がどうにかできるのは、それをどれだけ深く感じ取るかだけのように思われる。

 

もっとも、起点が先験的に定められようとも、その場所から周りを見渡す方法、つまり視座は、自分で作っていくことができるように思われる。例えば伊藤計劃の視座はとても映画的だ。ボラーニョの視座はとても広範な文学に彩られている。あれらは本人の努力によって作り上げられたものだろう。後天的に獲得されたものだ。つまり、生まれた場所は勝手に決まるけれども、そこからどのような望遠鏡、あるいは顕微鏡で世界を眺めるかは本人次第というわけだ。

 

こうしたことを踏まえると、さて、それでは自分は視座をきちんと作れているだろうかと考え、やはり日々精進しなくてはなと思えてくる。