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初期衝動から幾星霜

日記

 十代の頃に感じた衝撃に意味はあるのかって思う。

 よく人は、自分が直面している問題や出来事を前代未聞だと勘違いしてしまう。とりわけ思春期はそれが顕著だ。ぼくは子供の頃に聖剣伝説3の攻略本を熟読して育ったし、思春期になったら西尾維新舞城王太郎を読んで過ごした。つまり現代のサブカルを通り抜けてきたわけだ。今好きなのはボラーニョをはじめとする海外文学だけど、それでも、ぼくは間違いなく十代から引かれている延長線の上を生きていると思う。ぼくは当時「それら」を「今」だと思った。実際、きっとそうだった。でもたぶん、もうその時代は過ぎ去ってしまった。

 なんということか、ぼくはもう三十歳になってしまった。

 

 さっき見つけたのだけれど、七年くらい前のインタビューで太田克史西尾維新舞城王太郎の編集者だった人)が東大の学生(ぼくより四つくらい下)にインタビューされている記事を読んだ。東大生たちは太田克史のことを暗に「ゴミ生産機」として扱っているかのようだったし、ラノベのことを「読み捨ての売文」として扱っているかのようだったし、言葉の端々から「あなたはそんなクソみたいな文章を編集する仕事をしてお金を稼いでいて恥ずかしくないのですか」という意図が染み出ているかのようだった(ちなみに、東大生は実際のところ簡潔に質問しているに過ぎない。ぼくのこれはとてつもない被害妄想に過ぎない)。

 それで、ぼくは当然のように太田克史側に立って文章を読んでしまったし、東大生たちにイライラさえした。じゃあお前らの言う「歴史に残る文章」ってなんだよ、結果論だろ、小西甚一の『日本文学史』読んでから「歴史に残る」ってのがどういうことなのか考えてみろよ(東大生なのだから読んでいるのかもしれないが)、と言いたくなった。七年前のインタビューに対してキレるなんて、なんと不毛なことだろう。

 でも我に返って気がつく。

 たぶん、ぼくのとっている立場は一般的ではないのだ。

 

 なぜぼくはこのような立場をとるのかって思う。

 それに意味はあるのかと疑問に思う。

 

 大学生のとき、文学でつながっている友人は誰一人として西尾維新を認めていなかった。でもぼくはずっと西尾維新が好きだった。友人に『君とぼくの壊れた世界』を貸して酷評されても「あっそう」で通した。どうでもいいけど今では全員と縁が切れてしまった。

 ぼくは数年前、太田克史星海社を作ったと聞いたとき本当にわくわくしたし、講談社ノベルズから発進した作家たちが四方に散開していったときは何かが起こるのだと確信すらした。そしてどうなったか? 何かは起こったのかもしれない。西尾維新物語シリーズなどで天下を取ったのだろうし、最近では戯言シリーズがアニメ化した。舞城王太郎芥川賞候補になった。でもなぜかぼくは悲しくなって嫌になり、むしろ海外文学ばかり読むようになり、ロベルト・ボラーニョ(一人称作家)に自分が見ていた夢の世界の転生体を見つけたり、ロノウェイウェイオール(一人称作家)の文体の中にアメリカンないーちゃんの自虐ネタを見つけたりする(このハードボイルド作家なんてアマゾンじゃ酷評されているけどぼくは大好きだ。なぜか最初に二巻を買って読んでしまったけれど本当に好きになった)。そして絶望する。結局ぼくは西尾維新から逃れられていないのだ。というより、ぼくは自分の頭の中で作り上げた西尾維新の夢から逃れられないのだ。ぼくが好み嫌っている西尾維新は、今作家として活動している西尾維新とはたぶんもう全く関係ない。ぼくは化物語を読んでそれ以降彼の小説を読むことをやめたのだし、いつまでたってもりすかの新刊を出さない西尾維新なんてきらいだから、ぼくが尊敬しながら憎悪している西尾維新はたぶん本物とは別人の、ぼくが頭の中で作り出した一種の幻なのだ。

 

 どうしてぼくはこうなのだろう。

 あるいは昔、西尾維新の本を読んでこういうシニカルなのもいいなと思ったせいで、今のぼくはこういうずれた見方をして自分に酔うようになってしまったのだろうか? 

 

 でも、厳然たる事実として、ぼくはぼくから逃れようがない。全てをリセットして、一から自分の傾向を作り直すことはできない。一つ前の日記ではないけれど、ぼくは浦沢直樹にはなれないし、伊藤計劃にもなれないし、当然ながら、西尾維新にだってなれない。ぼくはどうしようとぼくでしかない。くそみたいでしみったれた現実。どれだけ海外文学に逃避しようがぼくは違う文脈を頭の中にインストールすることはできない。どうしたって根っこに「西尾維新」がいる。それが思い込みだとしても。

 

 

 

 

 なんだか言いたいことを中正に書けた気がしない。

 でも所詮、日記なんてこんなものだ。

 

 年が明けたらもっと海外文学に逃避する、というより、自分の脳みそをぶっ壊したい。『ナボコフの文学講座』とそこで取り上げられている本たちを原書で読もうと思う。運がいいことにもこれまでの人生で英語とフランス語の読解力はそれなりについているので、ドイツ語だけはこれからやらなければならないけど、たぶん死ぬ気でやればなんとかなるし、それくらいやれば頭の中の西尾維新の幻も死んでくれそうな気がする。というか本当は、それでも死なないことを期待していて、それからもその幻想と一緒に生きていけたらいいなと思う。