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理解されないことの確信

日記

 昨日から『ゲーテとの対話』を読みだした。評判通りとてもいい本だ。キンドル版が安い。

 

 まず気に留めたのは作者、エッカーマンの境遇だ。彼は詩や散文をものして周囲に認められるのだし、なによりそもそも、周囲に古典や小説を尊ぶ人々が集まっている。とても羨ましい。ぼくはこれまで生きてきて古典を尊ぶ人に出会ったことがない。いや、いるにはいたが、尊ぶばかりでほとんど読んだことはないし読む気はない、という人ばかりだった。

 家族はさっぱり本を読まないし、読んでいる自分をきちがい扱いする。彼ら彼女らにとって、仕事から帰ってきた後の時間は酒を飲んで家族でだんらんしてテレビを見て楽しく過ごす時間であって、その時間に本を読もうとすること、あるいは書こうとすることは異常な所業らしい。ぼくは仕方ないから、自分の文学への情熱を宗教のようなものだと説明し、理解してくれなくてもいいから放っておいてくれと頼むが、彼ら彼女らは何としても自分を本から引きはがそうとする。自分がテレビに集中しているときに話しかけられるとキレるくせに、ぼくが本を読んでいる間はたえず話しかけてくる。ぼくが図書館から文字だらけの本を借りてくると顔をしかめる。何の役に立つんだ? と言ってくる。ならば、テレビのバラエティを見て何の役に立つのだろう? たまに家を出たくなるが、家を出る機会は何度もあったが、その度に潰されてきた。

 

 だからたまに思うのは、本当にぼくの頭がおかしくて、異常者で、きちがいなのではないかということだ。多数決なら確実にぼくが負けている。

 

 もっとも、ぼくは負けていようが理解されなかろうが、今後も異常であり続けるだろう。来年からは外国語を鍛えなおすつもりだが、そのために読む本は三年後まで決まっているし、その過程で数千円する本や辞書を購入することになるだろう。もちろん余分な金でだが、それも家族はよしとしない。「本なんかに金を使うなら毎日うなぎでも食べた方がマシだろう。馬鹿野郎が」といった言葉をぼくは聞き流し続けるだろう。

 

 

 もう一点、『ゲーテとの対話』の序盤を読んでいて気になったところがある。それは、大作を書こうとするな、というゲーテの警句だ。それ自体はよく聞く言葉だが、ゲーテのそれにはとても十全な理由がついていた。

 人は、日々の中で目に映る人間や出来事に端を発して作り上げられる小さなテーマの詩を、自分の言葉で作り続けることでこそ傑作を作れるのだという。そこにこそ、真なる個性が現れるのだという。

 十年前にこの文言を聞いても同意しかねたかもしれないが、今なら少しわかる。是非実行してみようと思う。