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物語の登場人物の理想と寿命

日記

 価値判断の話。

 

 今日たまたま、『のだめカンタービレ』の23巻と『ちはやふる』の33巻を読んだ。つまり、のだめは最終巻、ちはやふるは現時点での最新刊。

 『のだめカンタービレ』ではそのエンディングにおいて、二人が最初の頃の楽しさを思い出した様子が描かれている。これから先へ進むために、初心へ返った、という感じ。

 ところが『ちはやふる』では真逆の価値判断が描かれていた。新がさらに強くなるために最初の頃のかるたの楽しさを理想とすることをやめ、新たな理想を胸にすることにした、という感じ。

 つまり、片や原点へ、片や変化へ。

 そして僕は思った。どちらがより書かれるべき物語であり、どちらがより読者にとって毒か薬のような劇物となりえる物語なのだろう?

 

 

 まず読者としての僕の、主観的な感想を述べてしまおう。

 自然に感じられてしみじみと感動したのはのだめの方だった。最後の締めとして原点を持ってくることにより、物語の軸が強靭さを増して大団円を形成し、エンディングのその後を想像させる余韻を生むことにすら寄与している。そういったエンディングを設定することにより、長かった物語の最初から最後までがしっかりと一つの流れとして定義されている。

 なら、ちはやふるの方はまずかったのかというとそういうわけではない。新が新しい理想を抱いたことは、他の登場人物の思想にすら波及し、物語に新味をもたらしている。それは軸に従って単調に流れていきかねない筋をうまく外し、さらなる起伏をもたらすことに貢献している。

 

 それにもちろん、実際に取るとしたらどちらかの方が上策でどちらが下策かという話ではないし、物語の展開としては片方がエンディング、片方がまだ途中、という違いもある。あの場面で、のだめと千秋にとって原点に立ち返ることが必要だったのはよくわかるし、新にとって新しい理想が必要だったのもわかる。どちらが選択としてよりよい選択なのかは簡単には決められない。というか、決める必要がない。考えるべきは物語における効果である。

 

 

 結論を言ってしまえば、僕は『ちはやふる』の新の描かれ方に可能性を感じた。

 なぜなら、のだめの、原点に返って理想を確かめる、というあり方はありふれている。それはある意味で鉄板の選択肢であり、他のいろいろな物語で見かけるものだ。もちろんだからこそそれを物語の締めに持ってくれば安心と安定のエンディングをもたらすことができる。物語を完成させることができるのだ。現に僕も泣いた。しかしそれは新しくない。

 「僕らはどんなに変わろうと僕らのままなのだ」という物語よりも「僕らは僕らのままであるためにこそ変わっていく」という物語の方がたぶん新味がある。

 

 

 

 違う。

 いや違う。ぼくはのだめの一部分とちはやふるの一部分を切り出して都合のいいように語っている。のだめは決して「どんなに変わろうとも僕らは僕らのままだ」ということがテーマではない。二人はあまりに変わっている。原点には戻りつつも二人の理想は最初とは全く違うものに変わっている。新のように。

 

 ぼくが日記につけたくなったのは一種の閃きだ。これはのだめとちはやふるに関する解釈ではないし評価などでは全くない。それらに触発されてふと思いついたことに関する覚書だ。「原点に返ること」と「新たな理想を抱くこと」に関して思いついたことを整理したかっただけだ。

 

 

 

 

 

 たぶんその理想によってキャラクターの限界は決まっている。もっと先や新しい景色にまで進みたかったら理想を変えるしかない。理想を変えることが出来ないキャラクターならまさしくそこが寿命なのだと思う。