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小説の自伝的要素について

 『ブエノスアイレス食堂』を読んだ。

 

 百年の孤独のような匂いを感じた。というか、20世紀のマジックリアリズム系の小説の流れを汲んでいるかのような。そういう感想を抱いてしまうのはぼくが浅はかだからかもしれないが、比喩で選ばれる言葉の端々からそういう匂いがわきたっていたのだ。そしてそれらの世界観から一歩も出れていないと感じた。いや別に出ていなくてもいいのだけれど。

 

 この小説を読んで考えたのはむしろボラーニョのことだった。最近のぼくはどうしたって事あるごとにボラーニョのことを考えている。ぼくは南米やスペイン語圏の小説をあまり読まないので、ボラーニョが描いたあの世界観はボラーニョの発明であるかのように思っているのだけれど、そういう「彼だけの世界観」のようなものが、ひるがえってこの小説には感じられなかったのだ。手法上の新しさは感じた。料理のレシピの著述がまるで意味深長な呪文であるかのように感じられて謎の迫力はあった。でも根本的にこの小説は何も新しくなかったのだ。なにより読みやすかった。

 

 別の言い方をすれば、このブエノスアイレス食堂で描かれているのは「作者が見た景色ではなかった」ように感じられたのだ。実際、この小説はエンターテイメントとして描かれたらしいから、それはそうなのだけれど、でもぼくは「その人が見た景色」を小説に期待してしまうので、一言でいえば、まぁ期待外れだった。

 

 なんだろう。ぼくは私小説を望んでいるのだろうか? そうではない。筆者の日常をだらだらと論述した小説などさっぱり読みたくない。でもボラーニョの小説を読んでいて詩人や戦争が出てきたときとか、前回の『民のいない神』を読んでいて異文化間の軋轢や移民のエピソードを読んだときとか、そこには大なり小なり作者が現れていて、ぼくはその点でそれらの小説を気に入ったのだ。

 

 もちろん、どんな小説にも多かれ少なかれ作者の血が紛れ込んでいるのかもしれない。だが周到に作者由来の生臭さが排除されているのなら、その小説にはあまり意味がない気がする。というか、読む必要を感じない。だってそこに作者がいないのであればそれをその人が書く必然性がないのだから。文体や知識や構成の話じゃあない。魂の話だ。

 

 どんなにクソだろうと作者の思想が叩き台として提出されていない小説なんて意味がない。もっとも、この小説からぼくが「作者」を感じることができるだけの感受性を持っていなかった、というだけの話であるかもしれない。

 

 

 

 

 ちなみにぼくは今、自分をまったく棚に上げて話している。