小説の強度について

『シガレット』を読んで思ったこと。

 

 ごくごく当たり前のことなのだけれど自分のような未熟な書き手は、往々にして「好きな言葉、同じ文のリズム、過度の隠喩など、言語の全体性から彼の目を逸らさせるもの」に固執しようとする。本当にそれは捨てなければならない。そういったものは個性や美点というよりも、初心者の勘違いであることは疑うべくもない。初級者になりたいのなら初心者のときに身につけた癖は捨て去るべきなのだ。

 最初にたてたプロットにこだわって、必要な分量を作るために文章を引き延ばす悪癖は抜けたと思う。しかし逆接で文をつなぐ手癖、ボラーニョの翻訳からパクった「というか」という接続詞、奇妙に頻出する「つまり」という接続詞も捨てるべきだとは常々思ってる。

 

 作者が念頭に置いた青写真はよくわからなかったけれど、少なくともこの小説の強度は自分のような馬鹿にでも伝わった。一つの人間関係という総体を十五の人間関係という焦点を通して紡いでいくその技術はとても参考になった。とりわけ、最後に語り手がルイスであることを示したことによって小説全体が特別な色味を帯びてさらに締まったことは言うまでもない(語り手がルイスだというのは私の推測だが、最後に私が出てきた節で示された情報から恐らくそうだと思われた)。

 数か月前に百年の孤独を再読したときもまざまざと思ったのだけれど、当然ながら、お話には始まりと終わりがある。そして一つのお話の中には、さらに小さないくつもの始まりと終わりが詰まっている。一般的に、小説の強度や密度はその詰まり方にかかっている。そしてこの小説はその始まりと終わりを丹念に積み上げることがどういった効果を生むかを改めて教えてくれた。ここには様々な始まりと終わりが詰まっている。どんな小説にもそれは詰まっているかもしれないが、少なくとも、この小説はぼくの好む詰まり方をしている。

 

 しかしなぜこの小説のタイトルが『シガレット』だったのかは、ぼくにとって謎のままだ。最初はタバコが出てくる小説なのかと思った。しかしそうではなかった。これは登場人物の一人であるフィービが狂ったときに頭の中で鳴り響くリズムの節だった。そのリズムが大事だったということなのだろうか? しかしここで思い出すことには、狂ったフィービの内面を描いていたのも、語り手であるルイスだったということになる。タイトルをつけたのはルイスだろうか? それとも作者であるハリーか? さて、それは単にこの小説と巡り会って一読しただけのぼくにはわからないのだけれど。あるいはこれも同じテーマについて意匠を変えて繰り返している系の小説だったのだろうか。シガレットという節が言葉にされたのはフィービの狂った内面を通しての一度でしかなかったが、ひょっとしたら登場人物たちは同じシガレットという節をそれぞれの足元で刻み続けていたのかもしれない。これはそういう小説だったのかもしれない。