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戯作と現実

日記

 小西甚一の日本文学史に、日本文藝は戯作文学からの影響を脱しきれていないと書いてあった。


 なんとなくそのことが頭の隅に残っていて、つらつらとたまに考えていて、今回、自分の小説のテーマってなんなんだろうと考えていてそのことが結びついてきた。



 煙の樹というアメリカ人の小説を今読んでいて、そのあとがきに、この作者はいつもアメリカが生んだ戦争のことを書いているとあった。それがテーマなのだと。それは現実だ。しかも読者が読みたい「お話」として書くのではない。なんらかの現実の片鱗や空気感をつかむために、それを求めて、未到の荒野を少しづつ測量していくかのような小説。そういう書き方。


 そしてふと思ったことには、ボラーニョやへモンもそれと似たことをしていたのだと。背景は違えど、みんな自分にとって見過ごすことも過去の暗闇に捨て去ることもできなかった過去を諸手で一つずつつかみ、握りしめて固めていた。


 前にポーランドのレムによるディック論を読んでいたときも似たようなことに出会った。彼は他の全てのアメリカ人SF作家を退けてただディックのみを揚げる。なぜかと言えば、ディックはSFというメガネを通して我々の危うい現実感覚を描かんとしているからだと。他のSF作家のように、宇宙人との戦闘や機械との戦闘などの非現実的でどうでもいいことに話を持っていかないからだと。


 そしてここで日本の戯作文学に戻ってくれば、戯作文学のテーマは、ぼくらの生きているこちら側ではなくて想像力の向こう側の話なのだ。向こう側について書くほとんどのそれは、先行作品を踏まえたテンプレであって、読者が筋の小異を捉えて微細な振動を楽しむ通のためのエンターテイメントなのだ。まぁ、自分は西鶴置土産しか読んだことがないからあまり偉そうなことは言えないのだけど。


 小西甚一の言う戯作文学とは要するに、現実とは隔絶したラブコメ空間で繰り広げられる男女の恋愛模様のことだろう。ぼくは別にラノベのことを言っているのではない。ほとんどの日本の小説は、そしてぼくのようなど底辺の作家志望が描こうとする作品においてすら、そのような空間は否応なしに出現するし、逃れることはとても難しそうに思える。


 しかしボラーニョやへモンは軽々とそういったものをこえて自分の文学を、自分の見てきた現実の片鱗を、やすやすと語りだす。きっと彼らの国にも彼らの戯作文学はあるのだ。でもそういったものに足を取られないで語りだす。


 だからぼくはボラーニョを好きになったのだ。ベラーノが受賞者リストにセンシニを見つけたとき、野生の探偵たちの僕が臓物リアリズムに入ったとき、読んでいたぼくは震えたのだ。少年の頃のへモンが一家の財産をポケットに、冷蔵庫を買うため隣町行きの電車に乗ったとき、ぼくは笑ってしまったのだ。そしてディックの小説が破綻してラストがめちゃくちゃになってしまうのは必要経費なのだろう。そしてたぶん、西鶴はきっと、ボラーニョたちのようにこちら側についても書いた人間だ。当時は全然売れもしない世話物というジャンルを誰に頼まれるわけでもなく書いた西鶴の置土産は、きっと彼にとって、先行作品を踏まえたテンプレではなくてどうしても書かざるを得なかったことなのだろう。