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感情廃棄物

日記

 くだらないテーマはこの日記で消費して、決して小説に侵入してこないようにしたい。それはぼくの日常かもしれないが書きたいことではない。いや別に書いてもいい。ただぼくは単なる愚痴を書きたいわけではない。自分の気に入らないやつを妄想の中でぶちのめすために小説を書くような無様な真似だけはしたくない。いや別にそれでもいいっちゃいい。でもぼくは、なんというか、もう死んでしまった好きな作家たちに書いたものを読んでもらえたときニヤッと笑ってこいつはいいなと言ってもらえそうなものを書きたいだけだ。それだけだ。あとはどうでもいい。承認欲求が~とか箱庭の妄想が~とか、あーだこうだとか、とにかくみみっちくてくだらないことはどうでもいい。ジュネが語っていたレンブラントみたいになりたい。ぞうもつリアリズムに入りたかった。ノーベル賞作家の講演会に乱入してめちゃくちゃにしてインタビューを受けたかった。

 

 

 

 こう、なんていうか、まず登場人物がいる。そいつらの関係を描く。関係の変質を追いかけていく。読んでいく。最初は遠くからになる。でも文字でそれを描くせいで不思議な距離感になる。遠いようで近い。しかも段々なぜか抽象的に近づいていく。そしたらそいつらがスパ―ッとどっかにいっちまう。でも気がついたらそいつらがすぐ近くにいて、そいつらがこっちにきたのか読者がそいつらを追いかけていったのか、それはわからないけれど、とにかく気がついたら読者の割と近くに登場人物たちが立っていて、よぉって声をかけてきて、それでお話が終わる。そういう感じの小説が書きたい。っていうか読みたいのだ。もっと。だから書きたい。

 

 

 

 

 

 基本的に小説読んでるって言うと「現実に興味ない引きこもり」って思われるし、小説書いてるって言うと「一発大当たりを狙ってる夢見がちな人」だと思われる。昔は大まじめにむっとしてたけど、今は「そうっすね~」としか言わなくなった。ネットがあると自分の興味ある話題しか調べないから世の中に読書家がたくさんいるかのような気がしてくるけれど、実際はそんなことない。現実、蓮歌の世界観を理解したくて水無瀬百吟を繰り返し読んでるときちがいだと思われる。でも実際そうなのだ。ぼくはきちがいなのだ。仕方ないからそれを認めて開き直っているとますますきちがいだと思われる。とにかくどうにかして更生させようとしてくる。読書する人は病気で狂っているらしい。なぜならたくさんの大人が読書などせずとも立派な大人として生きてこれたから。読書は余分で不必要なものなのだと。子供の頃は本を読もうっていうスローガンをよく見かけたけど大人になったら本を読むことが間違いだとみなされる。せめてラノベを読んで美少女に恋している方がわかりやすくてマシだとさえ思われている気がする(いや、よく隠れてボーイズラブを読んでうきうきしてはいる)。でもたまに小説の著者の頭の良さに感動して、その感動を伝えることくらいはよかろうと思って話をすると、新興宗教の布教をされたかのような顔をする。「非現実な妄想に時間を使っている暇があったら親孝行をしろ」と言われる。物質が原子でできているということすら妄想として片付ける人々は基本的に目に見えないあらゆるものを信じない。本の著者の思考なんて不気味なものに感動するなんてゾッとする。外で働いて金を稼いできたら家では家族で酒を飲みながらテレビを見て寝てまた仕事に行く、そういう普通の生活をしていれば本を読む暇なんてないはずだ、そういう生活がなぜできないんだ。頼むから普通のことをしてくれ。余計なことを考えないように肉体労働をした方がいいんじゃないのか? そしてぼくはいつものようにあきらめて部屋に戻って本を読む。実際、たぶんぼくは頭がおかしいのだ。なにしろぼくはそもそも現実が嫌だから本を読んでいるわけではない。本が妄想だとすら思っていない。それは誰かが現実に書いたものであって、網膜がとらえる目の前の光景ではないにせよ、かつての現実だったとすら思っていて、どこかの誰かがどうしても書き残しておきたかったそういう現実にぼくは敬意を払っている。基本的に敬意を払ってページをめくっている。もちろんぼくは家族で仲良く酒を飲んでテレビを見ることが嫌なわけじゃないしたまにはそうする。でも本を読むことでしか満たされないこともある。ぼくは現実逃避をしているのだろうか。そうだね。現実逃避をしているんだ。逃避のために本を読んでいるんだ。ぼくはなんて無礼なやつなんだ。本に対して無礼なやつだ。最初に本を読んだときはこうじゃなかった。ただおもしろかったのだ。だから読み続けた。それだけだ。逃避も生活も現実も妄想も仕事も自負も何も関係ない。ただおもしろかったから読んでいたし書いてみたくなった。それだけだ。本当にそうか? いじめられっ子だったろう? 逃避だったんだろ? ぼくは過去を美化して自己催眠をかけて読書はまともなことなんだと言い聞かせて自己正当化しようとしているんだろう? あぁきっとそうだ。くだらねぇ。

 

 

 

 大学生のとき、研究室の助手の人に何度も何度も「他人に期待するな。自分だけを信じろ」と言われた。でもぼくは話半分で聞き流していた。「レポートを書くときは都合の悪い情報を捨象しろ」とも言われたせいで、その人が最初は気に入らなかったからだ。でもその人はぼくが直接見知っている人間の中ではじめて小説を書くことを応援してくれた人でもあった。当時ぼくは個人ホームページに短編小説や漫画をのせまくっていて、なぜかあの人にホームページがばれていて、短編も漫画も全部読まれていた。そしてぼくがホームページの日記である日「モチベが上がらないから、誰かに自分のために小説を書けと言われたい」と書いたら次の飲み会で「お前俺のために小説を書け」と真顔で言ってきたことがあった。二十も年上だったけれど、ぼくは当時すでに(というか生まれたときから)ホモだったので好きになった。その人は既婚者だったのでもちろん諦めた。飲み会の後二人で締めのラーメンを食べに行ったくらいで満足した。飲み会のときよく、仕方ねぇなお前俺の隣に座れと言われた。ぼくは避けたり隣に座ったりを繰り返して自己完結することに成功した。助手をやめて大学を去るときにはたくさん応援の言葉をくれた。お前は間違いなく大器晩成だから(つまりそう簡単には作家になれないから)細く長く頑張れよ、みたいなことを延々と。うるせぇなぁこのおっさんと思った。とてもいい思い出だ。

 

 

 

 

 別に嫌なことばかりではない。いいこともたくさんあった。たぶんこれからもある。でもそういったことはここで吐き出して小説には影響しないようにしたい。小説は自己表現だけれど自己表現ではない。

 

 

 

 

 まぁとりあえず自分も過剰反応はしてる。嫌いが嵩じると無視したりわざと険悪な空気作ったりするから、それは自分が悪いけど。

 

 

 はぁめんどくせ。