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ヴァルールの合っている小説、とかいう謎ワード

 たまに思うんだけど自分、小説より歌の方が練度たけーんじゃねーかなって。

 どっちも単なるアマチュアで十年以上続けてる下手の横好きでしかないんだけど、技術的なものは歌の方が積み上げてる感じある。歌って正しい方法で練習するといつもほとんど二、三日で成長を実感できるし、数ヶ月から半年スパンでブレークスルーを感じる。それになんというか、ネットを通じて上達の方法論を仕入れるのもたやすい。一年前の自分と今の自分は違うし、二、三年前とはもっと違う。

 逆に小説は成長を感じられない。むしろ迷走感がはっきりしている。こういう方向に進んでいこうっていう明確な指針がないんだ。リスペクトしかない。
 歌はリスペクト以上のものがある。小説でボラーニョが好きなように、もちろん歌にも憧れてる歌手とか参考にしてる歌手とかが腐るほどいる。でもそれ以前に、自分の中で良くも悪くも軸となるこだわりがある。テーマがある。だから迷わない。どこに進みたいか決まってるから淡々と積んでいける。積み続けていける。でも小説はたまにどこに進んでいったらいいのかわからなくなる。テーマがない。他人への憧れは鮮明な目標を生み出しはしない。

 歌の補助としてピアノをちょびちょび練習していて、小説の補助に語学を練習しているのだけど、やっぱり確実に取り組めてるのはピアノの方だし。鍵盤から指を離さない方がいいなとかなんとなく自分で気づいてどんどん直していける。でも語学でそうはいかない。迷走してばかりだ。

 じゃあなんで作家志望なんて言ってるかっていうと、せれがせめてもの支えだからだ。歌とピアノは別に何も言わなくても勝手に続ける。たぶん死ぬまで趣味として楽しんで歌い続けると思う。でも小説は自分に言い聞かせないとたまにくじけそうになる。だから作家志望だと自称することをやめるつもりはない。小説を書き続けるためにはそれが必要だから。





 でも。
 こういうふうに頭の中を言葉にして整理しようとするといつも嘘を感じる。本当に小説のテーマがないんなら十年以上ズルズル引きずるかよっていう。ぶっちゃけ賞に応募だのなんだのはそういうのに決着が着いてからだし、正体が空っぽなまんま書き続けても本当に無意味だとは思う。そういう内面の葛藤なんざ他人にとってはクソ程どうでもいいこともわかっている。売り物を集めてる賞にこんなやつが応募するのは本当にただの迷惑だろう。だからやめる。本当にただ書ければいいだけなのだし。ぼくはオナニーしてるだけだ。ずっとそれを続けている。もっとも気持ちよくはないが。
 ぼくにとってぼくの葛藤はどうでもよくないし、変に斜に構えて賢しらぶって自分の葛藤をどうでもいいと言い捨てるのなら小説を書く意味は丸ごとなくなる。というか自分と向き合わない人生に意味なんてない。ちなみにその自分は文脈の結節点としての「自分」だ。独我論ではない。強いていうなら関係性の話だ。この世とは、巨大で緻密な蜘蛛の巣のようなもので、個人とは、糸と糸の結び目だとぼくは思っている。ぼくは別に自我が実在するとは思っていない。自分なんて糸が解ければ消えるものでしかない。





 絵画においてヴァルールという用語がある。色価とか訳すらしいけど、ぼくはヴァルールの合っている絵が好きだ。それは絵の基本であって、たぶん幼稚な評価基準なんだろうけど。でも好きは好きだ。色で緻密に見せてくる絵が好きだ。歌もそうだ。これは例えだけれど、ぼくはヴァルールの合っている歌を歌いたいといったときすごくしっくりくる。つまりヴァルールの合っている小説もまた自分の理想なのではないかとも思うのだけれど、いまいち想像できない。ヴァルールの合っている歌はわかる。実現できるかは別としてわかることはわかる。でもヴァルールの合っている小説はわからない。



 ほんと、いつも以上にとりとめのない日記。

 あとスマホで書いたときの文字の大きさ揃わないのほんとやだ。