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引っかかり

 たまに思い出すことでずっと引っかかってることがある。


 大学のとき作家を目指してる友人(少なくともそれを平然と公言していた友人)は一人しかいなかった。世の中には作家志望だと公言する他人を胡散臭いやつだと訝しむ奇妙な人々がいる。まぁその見方の是非はどうでもいい。何が言いたいのかというと、ぼく以上に彼の評判は悪かったということ。自己中心的で他人を馬鹿にしていて人の心がわからないと言われていた。実際、廊下をだらだら歩いて邪魔になっている女子に「どけ」と暴言を吐き、文学部なのに読書をしていない同級生に面と向かって軽蔑の言葉を吐いていた。愉快なやつだった。しかし同輩の誰よりも本を読み文学に対して真面目だったこともまた、誰の目にも明らかな事実だった。彼との話はいつもそれなりに興味深かった。

 そんな彼とある日、書こうとしている小説について話をしていたとき、ぼくは「実は書きたいものがある」と言った。すると彼はいつもの軽蔑したようなため息をつき、「書きたい? 何言ってるんだ。文学っていうのはそういうことじゃないだろ」と言った。

 このことがずっと引っかかっている。頭にきたという意味ではない。ただ引っかかっているのだ。考えてみればもう八年も前のことなのだけれど。


 ちなみに彼の意図がわからないわけじゃない。たぶん彼にとって文学とは一種の学術研究のようなものであり、時空を越えて数百年と続く営みの結果として要請されるものなのであり、そこに個人が自らの気分において「書きたい」と思ったことなど存在する余地がない。だからもし「書きたい」などという動機から筆をとるのならそれはちゃんちゃらおかしなことだと思っていたのだろう。

 八年前のぼくは彼のそうした考えに対して何か言うことを持ち合わせていなかった。


 しかし今は尋ねてみたいことがある。

 ぼくらは例外なく時代の奴隷だ。その想像力はどうしたって今ここから逃れることなどできない。だからぼくの個人的な「書きたい」という気分など、どうあがこうとも時代の中に収まるものであって、逆に言えば、連綿と続く文学の地続きの道の中に収まってしまうのではないかと思える。文学の歴史という巨人の肩に立って見る景色も、ぼくが気まぐれで目指した景色もともに、この時代の中のどこかにある一風景に過ぎない。

 勘違いしてほしくないのだが、「ぼくは正当な文学をやっている」と自己正当化しているわけではない。何をやっても逃れられないくらい文学は大きく豊かなのではないかと言いたいだけだ。


 別の言い方をすれば、友人とぼくとの違いは今ここで右に行くか左に行くか程度の違いしかないのではと思える。「正しい文学」を吸収し続けてその道の先に行こうとすることと、「書きたい」と思ったことを書くことがそれほど大きな差を生むとは思えない。一見別々の道であってもどうせ二人ともこの時代の外に出ることはあたわないのだから。


 というような話を友人にして意見を聞きたいが、残念ながらその友人もとっくに筆を折り、今は仕事と家族のために生きている。たまに本は読んでいるようだが、ものを書いているという話は聞こえてこない。