パンとぼく

 今日は現実逃避に手相占いに行ってきた。

 

 マスカケ線があるそうだ。天下をとれるよ、と言われた。あと完全な金環線が両手にあるそうだ。芸術的センスが高いよ、と言われた。それでいてなんか生命線と他の線が離れていることから、あなたは自由で大胆だよ、と言われた。作家志望としてこれ以上の手相はないよ。なんで成功してないの? がんばりなさい。そうすりゃすぐよ。

 

 ここまで聞いてぼくは思ったものだ。

 いやほんと占い師ってすげーサービス業なんだな。ここまで持ち上げられたら流石に悪い気はしないぜ。うへへ。しかし次の瞬間ぼくは真顔になった。

 

「あ、でも貴方には一番大切なものが抜けてるね。『自分』がないのよ。軸がないともいえるわね。掌をまっすぐに中指へ貫いていく線がないの。あー、いや、……あるわね。でも……すっごい薄い! えwwwwww うっすwwwwwww なにこれwwwwwwww 台無しwwwwwwwww あなたwwwwwww うっすwwwwwwww」

 

 ぼくは真顔になった。

 で、そのあとおばさんにめっちゃ手をもみしだかれながら説教された。とにかく覚悟を持ってがんばりなさい。あなたにたりないことは腹をくくることなの。とにかく頑張りなさい。あぁはいはい。はーい。わかりまーしたー! ちっ、うっせーなー! これじゃちっとも現実逃避にならねーじゃねーか!!!

 

 はい。

 

 

 

 

 

 というわけで、ロベルトボラーニョの『ムッシュー・パン』を読んだ。

 いつものやつだった。ボラーニョがかつて見聞きしたことの中で、どうしても彼が忘れたくなかった人を忘却の淵からすくいとったよ系のお話だった。とあるしょうもないオカルト屋のクソみたいな脇役っぷりを十全に描き切った中編だった。彼はどんな物語の主人公にもなれないまま終わる。さようならパン。

 

 そしてこの本を読んでぼくが思ったのはボラーニョとぼくの違いだった。何の因果かぼくはこのチリ出身のスペイン語作家を愛しているため、夜な夜な彼について思いを巡らせていて、彼とぼくのどうしようもないほどの違いについてよく悩むのだけれど、今日は特に考えてしまった。

 バックボーンが違う。これはいつかの日記(もう消したけど)にも書いたけど、彼はつねに自分の来歴から逃れることができない。クソみたいな南米のどうしようもないほどのクソさとか、ヨーロッパに渡った彼の同胞のどうしようもないクソさとか、そこらへんで起きた戦争のクソさから彼は逃れられない。そういったクソさがいつも彼のテーマになっている。

 しかし同時に彼はとてもブッキッシュな人間だ。19世紀フランスの象徴詩人たちなんて当然のように読んでいるし、ぼくのようなにわか野郎が泡を吹くくらい細かいヨーロッパ文学の知識をたまに垣間見せる。恐るべきはそういった手管が全く衒学的ではなく、むしろムッシューパンのようなクソ野郎と同じ調子で出てくるところだ。彼はムッシューパンもボードレールも同じように愛している。なんてしなやかで強靭な愛だろうか。

 彼は死ぬほど本を読んだけれど、しかしそれでやったことは文学の道に連なることではなかった。いや、連なっている。しかし文学の道に連なるために書いたわけではなかった。いや連なるためには書いている。でも彼は第三帝国というクソみたいなボードゲームやメスメリスムとかいうクソみたいなオカルトや、クソみたいな下水管の中を這いずりまわってクソみたいな同胞殺しを止めようと奮闘する気高い鼠や、火吹き男や娼婦や刑事や詩人たちのお話を書く。

 簡単に構造化すると、ぼくの目にボラーニョは、「クソだけど愛すべき俺の世界」というテーマを、「あまねくすべての(ヨーロッパ)文学」という言葉で歌っているように見える。

 こうしたときにぼくは気がつく。ぼくにはテーマがないと。少なくともボラーニョのように明示的に、小説の中ににじみ出てきてしまう「何か」はない。いや、ある。ないなんてことはない。でもそれが何なのかがわからない。日頃磨いているのは言葉の方だ。ボラーニョほどではなくても、自分で自分の歌を歌うための言葉ならもてる。そう思う。でもテーマが分からない。いや、じゃあ小説書かなくていいじゃんって話なんだけどさ。でもそんな話じゃないんだよ。そんな話じゃないんだ。ぼくはこんなふうに自分の意見を、自分のテーマを、なかったことにする癖があるっていう話だ。

 

 

 

 

 最近図書館で棚を眺めていると、それぞれの本が紙の束というより、それぞれの作家のテーマと言葉の塊のように見えてくる。いや前からそうなんだけどさ。ボラーニョに限らず海外作家を本をめくったとき、ぼくとそいつはどうしようもなく違う世界に生きていて、違う何かのために書いているのだということが嫌になるほど伝わってくる。小説は既存の要素の組み合わせパズルかもしれないが言うほど既存の要素の組み合わせパズルではない。ぼくは結局ぼくから逃れられない。手持ちのピースは決まっている。たくさんのものを見聞きして経験値を増やせば手札が増えるというわけでもない。どうしたってぼくはボラーニョにはなれない。村上春樹にもなれないし東野圭吾にもなれない。当たり前だけど。経験で増えるのは表面の意匠の取り繕い方だ。


 マスカケ線と金環線よ、ぼくを助けてくれ。